浅尾陣屋
所在地:岡山県総社市門田


浅尾陣屋跡全景<低丘陵(標高30m)に築かれた陣屋>

【浅尾陣屋の歴史】
 浅尾藩主・初代蒔田広定は、慶長八年(一六〇三)に、一万余石の大名となり、この総社の地を本拠とし、旧総社町の一部、備中国分寺のある旧三須村などが領地でした。
 寛永十三年(一六三六)第二代定正のとき、弟の長広に領地の一部を分割した為め、一万石を割って旗本となり、以後、約二三〇年、旗本の時代が続きます。
 幕末の文久三年(一八六三)第十二代広孝のとき高直しを許されて、再び、一万石の大名となり、旗本時代、井手の知行地を廃して、この浅尾の地に陣屋を構築しました。

 元治元年(一八六四)の「蛤御門の変」において、蒔田広孝は、京都見廻役として、京都警固任にあたり、長州勢を撃退しました。このことが、遠因してか、慶応二年(一八六六)四月十二日に、長州第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎ら、浪士百余名により襲撃された。いわゆる「倉敷浅尾騒動」により、陣屋の大部分が焼失し、その後、十分な再建もされることなく、明治維新を迎えました。

 この陣屋は、低丘陵上(標高約三〇米)にあり、山頂を占居して、山城の城郭構造の系流に属するもので、藩主の御殿を中心に、家中屋敷や、御台場、調練場等を配し、土塀(一部が残存しており、今回の復元の参考とした)等で周囲を固め、一定の城郭構造となっています。
            
           ※陣屋跡説明板より全文転載

【遺構】土塀 曲輪 井戸






陣屋跡を巡る遊歩道

石段を上がった所が下の写真



浅尾陣屋跡。浅尾藩邸見取図、神社などがあり、土塀が復元されている。



復元された土塀。残存している土塀を参考にして復元。



現存する土塀の一部


浅尾藩馬場用水跡の遺構(左・右) 
 


 
 
浅尾陣屋跡碑・復元土塀に至る遊歩道


 
浅尾藩御台場跡
 
御台場跡から見た陣屋跡


 
浅尾藩校集義館跡(手前は駐車場)
 

《浅尾陣屋跡周辺図》 
 ※国道180号線を高梁市に向って、「中央二」の信号を右折し、吉備線を過ぎて伯備線の手前右方向に陣屋跡があります。



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