| 八幡山城 概要 {歴史}天正13年(1585年)に羽柴秀次(はしばひでつぐ)によって、八幡山(鶴翼山)に八幡山城が築かれた。八幡山城は山頂の城郭と南山麓の屋敷群に分かれ、ともに総石垣で構成される。天正18年(1590年)に、秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次(きょうごくたかつぐ)が代わって城主となる。その5年後、秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自刃させられた文禄4年(1595年)には京都の聚楽第と同様に八幡山城は廃城となる。続日本100名城のひとつ。 {別名}近江八幡山城・八幡城 {史跡区分}ー {地形種類}山城 ※2019年11月訪城。近江八幡駅より北へ約2.5q。駅レンタサイクルを利用。 |
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![]() 近江商人の町並みから望む八幡山城跡 八幡山は、市街地の北に位置し、東西約1q、南北約3qの山地で、標高283.8m。鶴が翼を広げて飛ぶさまに似ていることから鶴翼山(かくよくさん)とも呼ばれている。山上には本丸などの主郭部が構築され、壮大な石垣が残る。 |
![]() 城の総構えを形成していたと考えられる八幡堀 八幡山の麓を流れる八幡堀は城を防御するために存在しますが、豊臣秀次はこの八幡堀を運河として利用することを考え、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡の町へ寄港させた。 |
| 山麓居館部 | |
![]() 山麓居館跡と八幡公園案内図(現地説明板に追記) 秀次館跡の出入り口から家臣屋敷群のほぼ中央を、大手道が直線的に走り、大手道の両側には雛段状の家臣団屋敷群が広がっていた。また、その屋敷群を囲む尾根には、石垣を伴った曲輪と呼ばれる遺構が残る。 |
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![]() 八幡公園 八幡公園は、八幡山の南側の麓に位置する。左方向が居館跡。 |
![]() 八幡公園内の豊臣秀次公銅像 豊臣秀吉の姉・ともの子。秀吉の養子となり関白職を継ぐも、後に秀吉の側室淀殿に秀頼が誕生し、後継者を巡る争いにより自害させられた。 |
| 大手道〜家臣団屋敷跡〜秀次館跡 | |
![]() (上)大手道を麓より見上げる 上がって行った突き当たりが秀次館跡。家臣団屋敷群は、秀次館から麓まで直線的に下っていく大手道の両側に、雛壇状の平坦地を設けて作られている。 (右上)家臣団館の屋敷(曲輪)跡 (右)家臣団館の石垣 |
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![]() 大手道を上がりきると眼前に現れる秀次館の石垣 |
![]() 秀次館の石垣 |
![]() 秀次館の石垣 秀次館跡の石垣は、他の石垣より比較的大きな石を使って積まれている。平成12・13年度に秀次館跡西側部分で行った遺構確認調査では、大型の礎石立建物や石組みの溝等を検出し、その建物に葺かれていたと考えられる金箔瓦等が大量に出土した。 |
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| 山上の主郭部 | |
![]() 主郭部案内図(現地案内板より) |
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![]() 八幡山城主郭部/建物推定復元図(現地案内板より) 現在は、野面積みの石垣と曲輪が残るだけです。再頂部に本丸を設け、その南東に二の丸、西に西の丸、北に北の丸が配置され、南西の尾根上一段低く出丸を配置する構造となっており、城壁はすべて石垣で覆われていた。 |
![]() 麓よりロープウエイにて訪問 約4分でロープウエイ山頂駅に到着。 |
![]() 二の丸石垣 ロープウエイ山頂駅を降りてすぐのところにある二の丸石垣。 |
![]() 二の丸石垣 |
![]() 瑞龍寺山門 山門が本丸虎口となっており、枡形を形成する。 |
![]() 本丸跡へ至る枡形虎口の石段 |
![]() 本丸跡 本丸跡には、秀次菩提寺の瑞龍寺が京都から移築されている。 |
![]() 本丸石垣と遊歩道 |
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![]() (左)(上)本丸石垣 石垣の隅部分は算木積みである。近江商人の発祥の礎を築いた豊臣秀次の城だけに見事な石垣が残っています。 |
![]() 北の丸跡 |
![]() 西の丸跡 |
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