![]() 二ノ丸跡から望む原城本丸跡 右方向が写真には写っていませんが本丸正門跡・空堀跡、左端は池尻口門跡。 【原城概略】 原城は肥前有馬氏の本城であった日野江城の支城として、1598年から1604年にかけ有馬晴信が築いた城郭です。島原半島南東部の海に面した丘陵に立地しており、本丸のほか二ノ丸、三ノ丸、鳩山出丸、天草丸などの曲輪で構成されます。全体的には土造りの曲輪が並立する中世的な構造をベースとしながら、本丸のみは総石垣造りで近世初頭頃の城郭の様相となっています。本丸には櫓台や、複数の門を伴う巨大な虎口(出入口)が設けられ、礎石建ちの瓦葺き建物がありました。 1612年の晴信の失脚、1614年の有馬直純の日向転封を経て一時天領となった後、松倉氏の支配となりますが、1618年の島原城築城開始に伴って廃城となりました。その後、1637年から1638年にかけて起こった島原・天草一揆では、廃城となっていた原城が一揆勢の籠城の拠点となりました。 ●昭和13年5月30日 国史跡指定 ●平成30年7月4日「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として世界文化遺産に登録(文は現地資料より) 【別名】日暮城(ひぐらしじょう) 【地形種類】平山城 【島原・天草一揆】 1612年の幕府の禁教令発布により、キリシタンに対する取り締まりは強化された。有馬地方は、かつて宣教拠点であったためキリシタンが多く、1616年に入封した松倉氏の治世下では、幕府の指示もあり、キリシタンへの弾圧が厳しさを増していった。また1618年からの石高に見合わない島原城築城や江戸城改築のための公儀普請も領民への深刻な負担となった。さらに飢餓も相次ぎ、領民は窮乏していたが、年貢が納められない領民に対しては凄惨な拷問や処刑が繰り返された。 ![]() 1637年10月末、堪えかねた領民の不満はついに一揆となり、島原城を攻めましたが落城には至らず退却。この一揆は天草地方の領民と示し合わせたもので、やがて島原と天草地方の一揆勢は合流し、廃城となっていた原城に籠城。その数は約2万数千人であり、少年の天草四郎時貞を総大将とした。一方、鎮圧にあたった幕府軍は、約12万であった。原城の立地が防御に適したこともあり、一揆は約4ヶ月に及んだが、1638年2月末、兵糧攻めの末に幕府軍の総攻撃を受け一揆は終結(島原の乱図屏風は現地説明板より)。 |
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【原城跡史跡マップ】![]() |
1大手口 2空堀跡 3ホネカミ地蔵 4本丸正門跡 5埋門跡 6本丸門跡 7櫓台跡 8鳩山出丸 9田町門跡 10天草丸 11池尻口門跡 ●周囲4キロの三方を海に囲まれた難攻不落の天然の要害 ![]() 天草丸側から眺めた島原湾に面して築かれた原城跡 【駐車場】 原城跡本丸方面に駐車場はありません。原城温泉真砂の駐車場に駐車(無料)となります。原城温泉真砂〜原城跡本丸間は、シャトルバスが無料送迎実施中。 ※2019年3月(2度目の訪城)。レンタカーにて訪城。国道251号線を行くと案内標識が立っているのでスムーズに行けます。 |
![]() 田町門跡側から望む原城本丸跡(南面)〜左上の石垣が欠損している曲輪は櫓台跡 |
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![]() 田町門跡 島原の乱当時は、千々石から口之津の住民1.400人で守備したところ。後方は本丸跡。 |
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| ■原城跡現況■ | |
![]() 三ノ丸跡に建つ板倉重昌碑 徳川幕府軍の総大将で、「島原の乱」初戦で戦死した。 |
![]() 三ノ丸跡 この一帯は原城の中で最も北側に位置する三ノ丸跡です。自然地形を活かした中世的な土造りの構造の曲輪である。三ノ丸の東側には、原城の正面口にあたる大手が設けられていた。 |
![]() (上)大手口跡 この付近は原城の大手口跡です。大手とは城の正面あるいは正門にあたる部分であり、三ノ丸の東側に、海に面して大手口が設けられていました。絵図史料にみられる大手の出入口の形状は、城内にいったん進入した後に直角に折れ曲がる内枡形虎口と呼ばれるものでした。原城の大手は、有馬氏の本城であった北方の日野江城方面に向いていることから「日上口」、「樋上口」などの字をあて、「ひのえぐち}とも呼ばれていました。この説明板の後方で行った発掘調査では、通路の一部と思われる玉石敷きや、大量の石で通路が埋められた状況を確認しました。また銃弾や人骨片などもみられ、大手付近で行われた戦闘の一端を物語っています(現地説明板より)。 右写真(現地説明板より)の現在地が上の写真場所です。なお、道路の突き当りは海で、手前右側に原城温泉真砂の駐車場があります。 |
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![]() 二ノ丸跡 道路左が二ノ丸跡、右が二の丸出丸跡。左奥が本丸跡となる。 |
![]() 城外から見た二ノ丸出丸跡 |
![]() 空堀跡 本丸の守りを固めるために造られた堀跡。築城より400年以上の歳月が経過し、自然崩落などにより大きく広がっていますが、一揆の様子を描いた絵図史料には、縦5間(10m弱)、横20間(約39m余り)と記したものがみられます。また空堀内部に小屋が立ち並ぶ様子を描いた絵図史料もあり、空堀の底にも一揆勢が所狭しに駐留したと考えられます(現地説明板より)。 |
![]() ホネカミ地蔵 島原・天草一揆の終結(1638)より130年ほど後の明和3年(1766)、北有馬村願心寺の住職注誉上人と南有馬村の庄屋乙名らが、原城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め、供養した地蔵塔。地蔵塔の左側は、本丸正門跡。 |
![]() 築城当時の石垣。左後方は空堀跡。 |
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本丸正門跡と外枡形虎口(A・B・C)![]() 縄張図(現地説明板の写真にA,B,C等を追記し掲載) 平成16年度の発掘調査で、8基の巨大な礎石や水路、階段が発見されました。礎石はその配列から門の礎石であることがわかりました。 石垣と一体となって本丸の正面入口に位置していることから、この門は本丸正門と考えられています。また門跡は、一揆直後に破壊された 大量の石垣石材によって埋め尽くされていたことがわかりました。正門跡の調査では瓦・陶磁器・人骨も大量に出土(現地史料より)。 |
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![]() 上記縄張図「←A」から見た本丸正門跡 本丸正門跡を進むと左折れの外枡形虎口の構造となる |
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![]() 本丸正門跡(内側) 内側から見た場合、城外から進入して右へ進む。 |
![]() 雁木(手前の石垣列)から見た本丸正門跡 |
![]() 縄張図「B↓」から見た外枡形虎口状況 左(本丸正門跡)から進入し奥へ進み、更に左折れの枡形虎口 |
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![]() 雁木と多聞櫓跡 中央の縦の石列が雁木、その右の平場が多聞櫓跡、奥は埋門跡となる。 |
![]() 多聞櫓跡 手前の平場が多聞櫓跡、右奥の角は隅櫓跡。 |
![]() 縄張図「C→」から見た埋門跡 |
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![]() 埋門跡(うずみもんあと) 原城本丸に入って中程に位置する2つ目の門跡です。文字史料には「埋門」と記されています。 一揆の後、幕府軍によって壊され、埋められていましたが、発掘調査で土砂や壊された石垣の石材を取り除いていくと、本来の石垣や階段、水路の跡などが確認されました。この地点では城の壊された工程がわかるよう、三段階で示しています(右写真)。 右写真の第3段階部分を奥に進んで右に曲がった所が本丸門跡。 |
![]() (現地説明板より抜粋) |
本丸門跡![]() (現地説明板の写真に一部追記) |
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![]() 本丸門跡 原城本丸へと繋がる最後の門。入口の空間へ入ると建物の基礎となる礎石が並んでおり、櫓門が建てられていたと考えられる。 |
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![]() 別角度から見た本丸門跡 櫓門を抜けるとその先に階段が設けられており、城内(手前)へ続く。 |
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櫓台跡(天守台跡)![]() ここで発掘調査によって大きく張り出した石垣の跡が発見され、調査時には石垣の上部や隅が大きく破壊され、土砂や石垣の石材で埋め尽くされていた。宣教師が残した報告書には三層の櫓が建てられていたことが記されており、築城時にはこの場所に天守相当の建物があったと推定しています。 |
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![]() 櫓台跡隅部(北西側) 石垣内の隅の壊された部分に、大量の瓦が出土した。 |
![]() 竪穴建物群跡 島原の乱で一揆軍が籠城した際の竪穴建物群跡(石垣左下の平場)。 |
![]() 櫓台跡(天守台跡)上部 |
![]() 櫓台跡周辺部 |
![]() 破却された石垣 この場所は石垣の内隅部にあたります。内隅とは石垣が内側に入り込んだ隅角のことです。ここでは島原・天草一揆後に破壊された状態を展示しています。 右図(説明板写真)の赤い線に沿って原城本来の石垣が残っており、その前面に崩された石垣の石材がつみ重なっています。なお、この前方にある石垣(右図・青線の箇所)は内隅が壊された後、耕地整理によって築かれたもので、天保7年(1836)の絵図にはすでに描かれています(現地説明板より)。 |
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![]() 耕地整理によって築かれた石垣(右上図の青線部分) |
![]() 本丸跡 後方には天草四郎像が立つ。 |
![]() 池尻口門跡 原城本丸に入る三ヶ所の門のひとつで、発掘調査で門と思われる礎石やその両側の石垣、階段などが発見されています。他の門跡と同様、島原・天草一揆の後に幕府軍に破壊され、埋め尽くされていました。破壊の激しさを示すよう階段の踏石には抜け落ちが目立ち、石垣は最大でも1.7m程の高さしか残っていません。特に石垣の隅角は、両側とも根石1石のみが残る状況です(現地説明板より)。 右写真(説明板写真)は池尻口門跡図解写真 |
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| 次は、池尻口門跡を抜けて城壁沿いに本丸正門跡(右端)に戻ります 戻る途中には、石垣破却状況を展示している場所があります。 ![]() |
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破却された石垣この場所では島原・天草一揆(1637〜1638)の後に石垣が壊され、築石(つきいし)が落とされた状況を展示しています。 江戸時代、廃城となったお城では石垣の隅など一部が破壊されることがありますが、原城は籠城の拠点となったことから、石垣が全体的に大きく取り壊されています。発掘調査では崩された石垣石材や土砂の中から、一揆勢のものとみられる人骨も多く発見され、戦後処理における幕府方の壮絶さや徹底ぶりが見てとれます。 下写真(説明板写真より)は、石垣破却のイメージ図です。 |
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