国指定史跡
鉢形城

   
(左)荒川越しに望む鉢形城遠景 (右)名勝「玉淀河原」から見た鉢形城跡


【所在地】埼玉県大里郡寄居町
 <アクセス>JR八高線・秩父鉄道・東武東上線「寄居駅」より徒歩15分
           

【地形種類】平山城
   
   名勝「玉淀河原」から望む鉢形城跡本曲輪の断崖絶壁

    
    鉢形城は荒川の断崖絶壁と急峻な深沢川の渓谷に囲まれた地形を利用した平山城

【築城者】長尾景春(ながお かげはる)
【現 況】近年の発掘により、曲輪・土塁・馬出・空堀・庭園・門などが整備。
【歴史概要】
 鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万uです。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。

 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。


【鉢形城跡曲輪配置図】

<鉢形城構造>
 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する地点に立地しているため、地形上、東南北側は堅固ですが、西側は開けており防衛上の弱点となっています。そのため、城主の居館や、上級武士の館のあった本曲輪から西側に何重にも深い堀切を行い、二の曲輪・三の曲輪などの曲輪をいくつも造成しました。さらにその外側には寺院を密集させて寺町とし防備を厚くしました。
 大手の位置は、城の西側で、城の拡張とともに移動しましたが、最終的には現在の諏訪神社の南側付近にあったと考えられています。
 各曲輪は、堀と土塁で囲まれるほか、主要な出入口には方形の馬出を備えており、曲輪ごとに部将が定められた管理をまかされていました。また、城の外側は周囲の小河川を上手く取り込み、水堀としていました。深沢川の南側には、後に城を拡張して外曲輪を造成し、下級武士の住まいなどとしたほか、さらにその南側に城下町を形成し、城の守りを兼ねさせていました。



玉淀河原から見た荒川沿いの鉢形城跡
 左の橋は正喜橋。正喜橋の左方向が寄居駅。



荒川に架かる正喜橋
 寄居駅側から見た正喜橋。正喜橋を渡って、すぐの道を右に折れる所から鉢形城跡。橋を渡った辺りは鉢形城の搦手になります。正喜橋を渡らず画像の橋の手前を右に行くと、名勝「玉淀河原」です。


【搦 手】

鉢形城の東南北側に位置する搦手橋脇の搦手



深沢川に架かる搦手橋

 ここは、深沢川(手前の川)と荒川が合流する地点。搦手橋からの眺め。
搦手橋から見る急峻な深沢川の渓谷


搦手の馬出跡(左・右)
    


【大 手】
 
 大手付近
 
 空堀跡


 
 空堀と土橋

 
 土塁

【笹曲輪】
  
 鉢形城の搦手に位置する「笹曲輪」と鉢形城石碑


 
 笹曲輪



笹曲輪の石垣遺構


【本曲輪】
 二ノ曲輪から搦手方向を望む
道路左は伝御殿曲輪(鉢形城本丸跡)。右は伝御殿下曲輪。道路の先は笹曲輪となる。

 本曲輪(伝御殿曲輪・伝御殿下曲輪)の真ん中を道路が貫く。



伝御殿曲輪の鉢形城本丸跡と石碑
後方は、荒川の断崖絶壁上に一段高く築かれた土塁



伝御殿曲輪の本丸跡
樹木後方は、道路を挟んで伝御殿下曲輪。


伝御殿曲輪の土塁
       



伝御殿曲輪から見た荒川と寄居町市街地
右の橋は正喜橋。この橋をほぼまっすぐに行くと寄居駅です。

【二の曲輪】

二の曲輪跡(柵の後方部分)
柵後方は広く長い空間で土塁が築かれている。右に本曲輪、左に三の曲輪が配置。


 
 二の曲輪跡
  右後方は三の曲輪跡。
 
 二の曲輪跡
  後ろの樹木部分は本曲輪跡。


    
馬出に架かる模擬木橋と空堀(左・右)
 二の曲輪の城山稲荷神社横と、伝秩父曲輪(三の曲輪)との間にある馬出遺構と推定される。三方を堀で囲む。


二ノ曲輪と三の曲輪を隔てる巨大な空堀と土塁
 後方は伝逸見曲輪。左下の柵列左部分が二の曲輪跡。右上の柵列右部分が三の曲輪跡。左下隅に「畝(うね)」が復元されている。

 この堀は、発掘調査の結果、最大上幅約24m、深さ約12mの大規模な堀であることが判明した。また、写真左側の二の曲輪跡は、柵列と土塁の間が平坦な細長い空間となっている。



二ノ曲輪跡の柵列と土塁の間にある広く長い空間
これは、敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と考えられる。



伝逸見曲輪側から見た空堀と土塁
 右が二の曲輪跡、左が三の曲輪跡。堀底最奥には、分かりにくいですが「畝」が復元。その後ろは馬出跡。



 堀底から「畝」と呼ばれる高まりが発見された。この「畝」は、敵兵が堀底で動き回るのを防ぐためのものであるという説と、堀底の水を一定に保つためのものという説があり、このような「畝」をもつ堀を「障子堀」という。

【三の曲輪】
三の曲輪跡
 一段高くなっている四脚門と土塀、柵で囲まれた区域は、庭園が発見された所で、伝承では、北条氏邦の家臣である秩父孫次郎が守った秩父曲輪といわれている。

 四脚門の前には虎口周辺の状況が復元整備されている。


伝秩父曲輪の庭園と石積土塁
 発掘調査では、池を囲むように建物が配置されており、掘立柱建物跡が数棟確認された。
 また、天目や茶入りなどの茶道具や、後北条氏の中核的な支城でしか発見されていないカワラケなどが出土していることから、宴会や歌会などを行う特別な空間であったと考えられている
 建物跡には四阿が復原されている。


【石積土塁】
 石積土塁は、全長約100m、高さは約4mで、上幅約6m、下幅約12mの規模をもち、鉢形城内でも最も良く残っていた。
調査の結果、内側には河原石を3〜4段の階段状に積み上げていることが確認され、雁木と呼ばれる階段も造られていた。
裏込石がなく、高さも一段が1m程度で、いわゆる江戸時代の城の石垣とはその規模・技法等において見劣りするが、関東地方
の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示す重要な発見となった。
       


復元された四脚門・石積・土塀
       


【虎 口】
発掘調査現場写真(現地説明板に一部追記)

三の曲輪の、伝秩父曲輪から諏訪神社(馬出)へ至る虎口の画像


上記写真「発掘調査現場写真」跡に、下写真に見られる虎口、南と西の石積土塁、四脚門、土塀などが復元



 伝秩父曲輪(門と土塀の後方の区域)は、一段高くなっており、幅2間半(約5m)で6段の階段が確認された。階段の最上段には、門が確認され、東側は壊されていましたが、礎石の一部と雨だれによってできた溝が確認されたので、間口は1間半(約3m)と想定。階段の最下段の西側には石列が一列確認され、階段を隠す「蔀(しとみ)」の一部と考えられる。  この場所は、畑になっていたが、発掘調査の結果、石積土塁が検出された。この石積土塁が北向きに折れる部分(右奥)は、最上位面が広くなることから、ここに「櫓」が建てられていた可能性があると考えられる。
 ここから土塁の間を通り諏訪神社(馬出)に向かう部分が虎口で、ここには門のあった可能性が極めて高いが、発掘調査では確認できなかった。柱穴が確認されなかったため礎石建ちの門であった可能性があると考えられる。

【伝逸見曲輪】
伝逸見曲輪の空堀



伝逸見曲輪から眺めた二の曲輪跡・三の曲輪跡

駐車場の上が二の曲輪跡、門と土塀のある所が三の曲輪跡


【外曲輪

見学の途中に咲いていた桜
 この桜の巨木は、町指定天然記念物「エドヒガン」だと思います。周囲は土塁に囲まれた平坦地です。

桜の巨木がある平坦地と土塁


別角度からの桜の巨木



外曲輪
 下級武士の住まいがあった曲輪。周囲は土塁で築かれている。土塁の後方には、城下町が形成され城の守りを兼ねていた。



外曲輪に建つ鉢形城歴史館
 鉢形城跡は鉢形城公園として整備されています。

※以上、文は現地説明板等を参照にして作成。



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