日野江城
(左写真)南側から望む日野江城本丸遠景
 
本丸は、段状に4つの曲輪(平場)からなる。
【所在地】
 長崎県南島原市北有馬町戊
【史跡区分】
 1982年(昭和57)、国の史跡に指定
【地形種類】
 平山城(標高78m)。築城当時は、海のそばにあり、その後の干拓で周辺は埋められた。下の写真から、その状況がよく窺うことができる。

※訪城日~2019年3月(2回目の訪城)
  
【アクセス】右写真の国道251号線を原城方面に進み、信号「日野江城入口」を右折後(右写真の赤丸部分)、県道30号線に突き当ると、日野江城大手口への誘導標識があり、ここを右折し指示通りに行けば大手口に到着します。また、搦手口へは、県道30号線を右折せず左折し、少し行くと右手にガソリンスタンドがあるので手前を右折し、道なりに進むと誘導標識が立っています。
※上と右の写真は、現地説明板の写真に追記掲載。右写真「現在地」は大手口。
    

(現地説明板に一部追記)
【日野江城歴史】
 日野江城跡は戦国大名有馬氏の居城であった。築城は1216年(健保4年)頃と見られる。日向延岡に転封となる1614年(慶長19年)までの約400年間、城主は有馬氏であった。縄張は本丸を中心として東をニノ丸、北西を三ノ丸とした。梯郭式或いは連郭式の構造をもつ平山城と考えられ、本丸の北側には、広大な空堀が良好な状態で残されている。築城以降、勢力を拡大していった有馬氏は、1550年代には島原半島から肥前東部一帯21万石を領有した。また、現在の長崎県、佐賀県に十一城(といちじょう)とよばれる支城の連絡網を張り巡らせ、広大な領域を支配した。

 第13代当主の有馬晴信は1579年(天正7年)洗礼を受けキリシタン大名となった。1580年、イエズス会の中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が有馬の城下町に創立された。1582年には卒業生による日本初のヨーロッパ派遣団「天正遣欧少年使節」がローマに派遣され、4少年は8年半を要し帰国した。帰国の際、日野江城跡で8日間にわたる報告会が催され、完成したばかりの屋敷に案内されたときの様子がイエズス会年報で次のように報告されている。「大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は、最近有馬殿の手で建てられ見事な出来ばえとなった城郭の中にある。」

 豊臣秀吉の天下統一以降、有馬氏は、豊臣秀吉、そして、次の天下人である徳川家康の臣下となり、島原半島4万石を支配するにとどまるのだが、有馬氏が行ってきた南蛮貿易や、キリスト教の保護政策は有馬にヨーロッパなどからの様々な文物や文化をもたらし、国際交流の最先端地を形成させることになったのである。

 平成7年度から始まった発掘調査では、鳥伏間(とりふすま)に金箔を貼った金箔瓦が出土した。遺構では、仏教徒に対する弾圧があったのだろうか、多量の五輪塔地輪が踏石に利用されている階段以降が検出された。また、大陸系の技術を駆使した石垣遺構が検出されたが、この石垣は当時の国内の城郭石垣では他に例を見ない貴重な石垣である(現地説明板より)。


 二ノ丸の発掘調査では、破壊され埋められていた石垣や階段遺構、多くの陶磁器などが出土した。見つかった階段は直線で100m以上に及んだ。大手口推定地から本丸下までを石段で一挙に駆け上がる構造は、織田信長が築いた滋賀県の安土城大手道にも類似した。階段の北側からは、石塔が多く出土した。宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔などの仏教式の墓石を階段に再利用していた。有馬氏が仏教を拝してキリスト教を保護したことと、その権力の強さがうかがえる。この階段の袖には、切石をつかった石垣も出土した。当時の城では類を見ない独特な技術で、南方の地域との交流を物語る貴重な資料である。

 出土遺物には、14世紀から16世紀の国産陶器とともに、中国や東南アジアで焼かれ、貿易によって運ばれた外国産の陶磁器が多く含まれていた。また上薬をかけずに焼いた素焼きの土師器(はじき、かわらけ)も数多く出土した。土師器は儀式や酒宴に用いたもので、有馬氏と家臣たちが儀式を通じて結びつきを深めたことを物語る。また、豊臣系の城郭で流行した金箔瓦も出土するなど、中央政権からの影響も現れている(写真と文は、現地説明板より)。

【日野江城から出土した金箔瓦】
 平成10年度に実施した第4次日野江城発掘調査で、城郭東側の通称二ノ丸跡からほぼ完全な形の金箔瓦が出土した。金箔瓦の出土は長崎県内では初めてであり、九州では豊臣秀吉がつくった佐賀県の名護屋城などに次ぐ4例目の貴重な遺物である。

 出土した金箔瓦は鳥伏間(とりふすま))と呼ばれる瓦で、頭の部分は長軸17㎝、短軸16㎝、中心の直径11cmの部分に巴紋(ともえもん)といわれる文様や周囲の17個の珠文が完全な形で残り、中心全面の凹凸両面に金箔が施してある。

 金箔瓦を使用できたのは豊臣直営もしくは直系の大大名で、豊臣政権の中でも重要な位置を占める城郭のみにその使用が許されていた。金箔瓦の出土により4万石の小大名の有馬氏が時の天下人である豊臣秀吉と密接な関係にあったことを示す証拠として注目を集めている(写真と文は、現地説明板より)。


 日野江城 ニノ丸跡


大手口駐車場
 この大手口駐車場から二ノ丸跡へ行くようになります。本丸跡に行くには別の入口(搦手口)からの訪問となります。

日野江城大手口
 石段左側が二ノ丸跡。下段・中段・上段の曲輪(平場)や石垣が残存。また発掘調査で階段遺構、金箔瓦などが発見されている。

二ノ丸跡で発見された階段遺構(覆土保存)
遺構説明板が置かれた地点では、異なる時期の階段跡が重複する形で見つかった。
発見されたのは、ニノ丸の中段の曲輪(平場)から上段の曲輪へ上がる16世紀末頃の階段。

 
(写真左)階段遺構検出状況。踏石の多くに仏教徒の墓石である石塔が転用されており、袖石垣には当時国内の城郭に例がない切石垣が用いられている。なお、金箔瓦は階段を上がった踊り場から出土。
(写真右)異なる時期の階段跡が重複する形で見つかったことにより、日野江城内で16世紀後半に城道の改修が行われたことがわかりました。古い階段は東側の大手口より直線的につながる階段の一部と推定しています。新しい時期の階段は古い時期と比べ、より幅がある階段に改修されたことがわかりました(写真と文は現地説明板より)。


写真上の「階段遺構検出状況」の場所は、現在、このような状態で覆土保存されている


二ノ丸跡周辺の石垣

二ノ丸跡から本丸を望む


日野江城 本丸跡 

本丸下段から本丸上段を望む



日野江城搦手口(浦口)
 二の丸跡から直接本丸へは行けないので、別ルートでこの浦口からの訪問となります。本丸近くまで車で行けますが、道幅は狭く、駐車場も数台しか置けません。


尾藤碑
 搦手口から本丸に向かう途中の三ノ丸跡に立つ。原城総攻撃に細川家番頭として出陣した尾藤金左衛門は、一揆の投げた大石に当り負傷、従者に背負われ日野江城二ノ丸に退き、重傷にも屈せず名号を自然石に刻み絶命したといわれる。


本丸下段(曲輪4)から見た本丸上段(曲輪3)あたりの様子


別角度で見た本丸下段から上段付近の石垣


本丸(曲輪3)から、上段の本丸(曲輪2・1)あたりの様子

本丸(曲輪2)より一段上に築かれている本丸(曲輪1)跡


本丸(曲輪1)跡
 後方中央に役小角祠(石祠)が祀られている。


反対方向から見た本丸(曲輪1)跡
 右は日野江城石碑、奥には日野江城説明板が立つ。

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