![]() 北西から復元天守と本丸を囲む内堀を望む |
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| 【所在地】 広島市中区基町 【史跡指定地】 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺。昭和28年3月国指定 【別 名】 鯉城(りじょう) 【形 状】 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城 【沿 革】 1589年(天正17年)毛利輝元 築城工事に着工 1591年(天正19年)毛利輝元 入城 1600年(慶長5年)福島正則 入城 1619年(元和5年)浅野長晟 入城 1871年(明治4年)廃藩置県により本丸内に広島県の役所が置かれる 1894年(明治27年)日清戦争時本丸内に大本営が設けられる 1945年(昭和20年)原爆により天守閣、太鼓櫓、表御門などすべて崩壊 1958年(昭和33年)現在の天守閣再建(文は現地説明板を引用) ※以後、画像の説明文、図等は、現地説明板、現地リーフレットを引用し作成。 訪城日~2022年6月(再訪問) |
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広島城城郭内全域図![]() 現在では、画像中央の本丸・二の丸とそれを囲む内堀が残る(全域図は説明板より) |
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| 広島城の歩み 広島城は、太田川河口の三角州に、毛利輝元が築いた典型的な平城 |
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| 城地の選定と築城 毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県安芸高田市)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)4月15日鍬入(くわいれ)式を行いました。 築城工事は穂田元清(ほいだもときよ/元就の子)・二宮就辰(にのみやなりとき/輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。 城下の整備 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後二ヶ国(現在の広島県域)の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。 しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和5年(1619)に芸備二ヶ国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟(ながあきら)が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までのおおよそ250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を勤めました。 明治以降の広島城 廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。特に明治7年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿等も焼失し、大天守、中・裏御門、二の丸等を残すのみとなってしまいました。そして昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。 現在の天守閣は、同33年(1958)に外観を復元して建設されたもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。 (文は現地リーフレットより引用) |
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《本丸跡・二の丸跡》![]() (城絵図は説明板より) |
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![]() (左)二の丸跡(内側)。奥の櫓門は表御門 (中)天守からの本丸跡 (右)本丸を囲む内堀と本丸下段の櫓台 |
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| 《二の丸跡をめぐる》 |
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| この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能を持つ郭で、全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。 この郭は、毛利時代(16世紀末)に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。 郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが、原爆により全て倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城四百年を契機に、江戸時代の姿に復元整備したものです。 |
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![]() 本丸跡から二の丸跡を望む 左より太鼓櫓(2階建)、太鼓櫓に接続して多聞櫓が延び、右端は平櫓となる。平櫓に隣接するのは表御門。画像右端の土橋は、中御門(本丸)に通じる。 |
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![]() 御門橋を渡ったところの表御門と、表御門の右は平櫓 |
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![]() 左より御門橋、表御門、平櫓(中央)、平櫓の右に多聞櫓が続き右端は太鼓櫓。周囲は内堀で囲まれている |
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![]() 二の丸表御門(内側) 表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの約350年間存続していました。 二の丸入口を守る表御門は、門の上部に櫓をのせた櫓門形式の城門です。かつての広島城には、このような櫓門が12基あったとされています。 現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。復元は、実測図をもとに、古写真や焼失後も残存した表御門の礎石上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。 |
![]() 二の丸表御門の内部 |
![]() 平櫓(外側) 木造一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺で、二の丸の南西隅を守る櫓。平成6年8月に完成。広島城の建物は、土壁の外観に板を貼った「下見板張」という外観です。 |
![]() 平櫓の内部 |
![]() 右より、太鼓櫓(2階建)、その太鼓櫓と左端の平櫓を連結する多聞櫓(渡櫓)の眺め。堀は内堀 |
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![]() 太鼓櫓(内側) 木造二重二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺。二階に吊るされた太鼓で時を知らせ、城門の開閉の合図としていました。太鼓の音が遠くまで響くように、二階の窓は他の櫓よりも大きく作られています。平成6年8月に完成。 |
![]() 太鼓櫓の内部 |
![]() 多聞櫓の内部 木造一重渡櫓、切妻造、本瓦葺。隅櫓と隅櫓の間を土塀とするよりも、多聞櫓の方が防御力が高く、平時は倉庫や住居として使用することができた。平成6年8月に完成。 |
『広島城二の丸の仕掛け』![]() ❶正攻法で、橋から攻める相手には、表御門の櫓の上などから火縄銃や弓矢で攻撃します。 ❷堀を渡る相手には、櫓や塀にある△や□の形をした「狭間」と呼ばれる穴から、火縄銃や弓矢で攻撃します。 ❸二の丸の西側半分(表御門側)は建物が無く、空き地となっているため、戦時等の際は兵士の集合場所とすることができます。また、南側(画像右側)は石垣が高く、その上に櫓があるため堀の外から二の丸内の兵の動きを窺えないようになっています。反対に、北側(本丸側)は石垣が低くなっており、万が一、二の丸内に相手が侵入しても、本丸から攻撃を仕掛けることが可能です。 ❹この部分は、城門の内側もしくは外側に設けられる「枡形」と呼ばれる小さな区画で、土橋を渡り本丸へ侵攻する相手を足止めし、三方から総攻撃を仕掛けます。かつてはここに門柱や扉に鉄板を打ち付けた鉄門の本丸中御門があり、戦前まで残っていましたが、原爆により焼失しています。その時の熱で変色した石垣を現在も確認することができます(文と図は現地説明板より)。 |
| 二の丸を構成した藩政時代の遺構 表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓などの施設を周囲に配置し、内部には馬屋、番所、井戸などの施設を整え、 生じた空間を巧みに利用することで、最も重要な本丸を守る馬出と呼ばれる機能を果たす区画となっていました。 |
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![]() 番所跡 番所は、城門を出入りする人を監視する場所。現在は遺構の配置を示す展示がされています。後ろの建物は、太鼓櫓と多聞櫓。 |
![]() 馬屋跡 馬屋は馬をつないでおく場所。左後方には本丸中御門跡の石垣が見えます。 |
![]() 被爆ユーカリの木 本丸へ続く土橋の手前に残り、現在も生き続けています。 |
![]() 内堀にはねる鯉 |
<次は本丸跡・内堀をめぐります>![]() 再建天守と本丸石垣を囲む内堀 |
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![]() 二の丸跡から見た中御門跡 二の丸から土橋を渡ると本丸の中御門があった。 |
![]() 別角度から見た中御門跡 広島城の続きへどうぞ ※地域別訪問城へもどる |