日本三大山城  岩村城   日本百名城
  [岐阜県恵那市]
【六段壁(ろくだんへき)の見事な石垣】
■岐阜県指定史跡「岩村城跡」のあらまし
 岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、標高717mに位置し、江戸諸藩の府城の中で最も高所にあり日本三大山城の一つである。 
 城の創建は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景康が、文治元年(1185年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まると伝わる。景康の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以来遠山氏が代々居城し、東濃地方から信州の一部まで勢力下とした。
 戦国動乱の時代に入り、天正元年(1573年)武田信玄の臣秋山虎繁(信友)が岩村城を奪取して入城したが、同3年に織田信長の軍に攻略されて、河尻秀隆が城主となった。その後は森長可、森忠政、田丸直昌と、城主は目まぐるしく交代した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以後は、大給松平本家の松平家乗が城主となり2代、丹羽氏5代のあと大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。
 城郭は中世城郭を近代城郭へと修築し、本丸二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が設けられ、丸と曲輪は石垣や堀切をもって区画され、要所に櫓、堀、門が構えられた。
 山城の建造物は明治6年(1873年)の廃城令を受けて競売に付され、すべて取り壊された。(現地説明板より)
 

■山麓の岩村藩主邸跡
 岩村藩主邸(御殿)は江戸時代初期(1610年頃)松平家乗(いえのり)によって創設され藩主は山頂の岩村城本丸から降りて入った。防衛防備に充分の注意をはらい門には番所を置いて出入りを監視し、屋敷内には地下室や地下道もあった。
 明治2年(1869年)版籍奉還により岩村県となり藩主が知事となると、ここを県庁とした。明治4年(1871年)廃藩置県により知事松平乗命(のりとし)は東京移住を命じられ藩主邸は空家となったが、明治14年10月30日夜、失火により全焼してしまった。


外から見た藩主邸跡
右側は再建された、「時」を知らせる為の太鼓櫓。

藩主邸跡に再建された太鼓櫓(左端)と知新館正門(右端)
 知新館は元禄15年(1702年)藩主松平乗紀(のりただ)によって創立された岩村藩校。

■移築現存門
 土岐門が徳祥寺(岩村町飯羽間)の山門として、不明門と伝わる門が妙法寺(岩村町911)山門として移築現存する。

  
  土岐門(表側)

  
  土岐門(内側)
  
  不明門(表側)

  
  不明門(内側)

■岩村城跡案内図(現地案内板に一部加筆)

訪城(2019年10月再訪問)は、岩村駅管理のレンタサイクルで藩主邸に行き、そこから徒歩にて訪問。
車の場合は藩主邸跡に置けます。また、本丸近くの出丸まで車で行くことができ駐車場を利用できます。


岩村城跡探索

藤坂
 岩村城大手の登城道のうち、藩主邸(上記城跡案内図@)から一の門(E)まで続く急な石畳の坂道は「藤坂」と呼ばれている。

初門
 直線的に伸びる登城道(藤坂)でこの部分だけが、行く手を遮るように鈎の手に大きく曲げられている。有事の際には、ここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため「初門(はつもん)」と呼んだという。岩村城の最初の関門である。


一の門
 二層の櫓門で、大手一の門とも呼ばれる。城に向かって左側には単層の多門櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていた。前面左側には石塁が張り出しており、死角から敵が近づかないように工夫されている。内側には番所が置かれていた。


土岐門
 岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。土岐(とき)氏を破ってその城門を奪い移築したという伝承からこの名がついた。廃城後に徳祥寺(岩村町飯羽間)山門として移築され現存している。

 土岐門に続く第三の門が次の追手門となります。

畳橋・追手門・三重櫓
 追手門は、畳橋(たたみばし)から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門である。脇には、畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていた。

 三重櫓は岩村城唯一の三層の櫓で天守に相当し、城下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見るように設定されている。(文と図は現地説明板より)

大手の入口は、高石垣と枡形門、三重櫓によって厳重に固められており、前面の空堀にL字形に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていた。床板を畳のようにめくることができたことから、畳橋と呼ばれたという。
 現地説明板等から推測すると、右奥の石垣上に三重櫓が建っていたと思われます。


はっきりしませんが、写真手前から、左手の石垣に畳橋が架かり、右手の石垣上には三重櫓がそびえていたと考えられます。また、追手門前には空堀が設けられていたとの事ですが、藪の生い茂っている辺りかと思います。
 

追手門付近の石垣。この先を進んで行くと八幡曲輪、霧ヶ井に至る。


左前方が八幡曲輪。反対側の屋敷跡には霧ヶ井(井戸)が残る。

霧ヶ井
 岩村城の別名「霧ヶ城」の由来となった井戸。敵が城を急襲したとき、この井戸へ蛇骨を投げ入れると忽ち霧が立ちこめ城を覆いかくしたと云う伝説があります。

 霧ヶ井の脇を先に進んだ所が二の丸跡となります。

  二の丸菱櫓台

山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった。山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。
菱櫓は全国城郭にもその例は、あまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。(現地説明板より)


(上)二の丸菱櫓台(右側石垣)から見た六段壁
 本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の見事な石垣である。

(右)元は右絵図のように最上部のみの高石垣であったが、崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿となった。

(現地説明板より)


六段壁の石垣。左手の石段から本丸に登ります。石段左側は東曲輪


次は「本丸跡」を巡ります

本丸周辺マップ(現地案内板より)
 
本丸は上下2段の曲輪からなっており、東と北には一段低い位置に長局と呼ばれる細長い曲輪が付属する。上段には納戸櫓など二重櫓が2基、多門櫓2基が石垣上に構えられ、門が3基設けられていた。それ以外は内部には施設はなく、広場となっていた。(文と絵図は現地案内板より)


長局埋門(ながつぼねうずみもん)
 六段壁左の石段を登った所に残る。写真には写っていませんが、手前の一段低い曲輪が東曲輪となる。両側の石垣の上に多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門。

長局埋門
 埋門を入った内側の細長い曲輪は長局と呼ばれている。

この長局埋門を入って、左手の本丸に入る内枡形状の通路は東口門で、本丸の正門である。下段左の写真。

東口門(枡形虎口)
 長局曲輪から本丸に進入する構造となる枡形虎口入口。左に折れて本丸内に入る。


長局曲輪から見た枡形虎口の石垣
 石垣上のあずまやは、昇龍の井戸。


左に折れて本丸に上がった所から見た枡形虎口


上から見た枡形虎口と本丸への石段


本丸跡

埋門
 両側と奥の石垣の上にすっぽりとかぶさるように櫓が載せられ、門の右側には納戸櫓(二重櫓)が構えられていた。また左側の石垣は江戸時代の築城当初のものであると考えられる。

本丸を散策した後は、本丸の裏側に回ります。


出丸から見た本丸石垣(南西側)
 石垣下の一帯は帯曲輪。左下の細い坂道を登って、石垣の向こう側を右に曲がった先に、右上写真の埋門が位置する。


本丸裏手の切岸
 本丸の裏手には、部分的に石垣にしていない土の遺構が残る。道路の右方向に南曲輪が残り、道路の手前方向に向かうと出丸に至る。


南曲輪跡の土橋と堀切
 本丸の南の尾根に伸びる戦国時代の遺構で、堀切や竪堀、土橋などの遺構を観察することができる。なお「南曲輪」は仮称である。


出丸跡
 本丸の南西の防衛を担う重要な曲輪で、2棟の二重櫓、3棟の多門櫓で厳重に固められていた。多門櫓の一つは大工小屋として使われるなど、平時には城の維持管理を担う曲輪でもあった。
 ※登城口から本丸までは800mの登り坂なっており、体力に自信のない方は、車で本丸近くの出丸の駐車場を利用することもできます。建物はトイレと休憩所になっています。

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