![]() 金田城壁石垣<南西部石塁> |
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【金田城について】663年、白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れた倭(国)は、西日本各地に古代山城を築き、対馬・壱岐・筑紫に烽火(とぶひ)と国境守備兵・防人(さきもり)を配置しました。日本側の当事者は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、のちの天智天皇)で、大化の改新という政治改革を進めながら外国からの侵略にも備えるという、まさに激動の時代でした。 国境の島・対馬は国土防衛の最前線となり、浅茅湾(あそうわん)の複雑な海岸線と、湾に突き出した石英斑岩の岩塊・城山(じょうやま。標高276m)の地形を利用し、667年、古代山城・金田城が築かれました(築城者 ヤマト政権)。防人たちはおもに関東から徴兵され、家族や故郷を想う心情が万葉集の「防人の歌」として今に伝えられています。 また、明治期には金田城を再整備する形で城山砲台が建設され、陸軍砲兵部隊が国境防衛の任にあたりました。その間およそ1200年が経過しているにもかかわらず、城山の軍事的重要性は変わらなかったことになります(現地パンフレットに一部追記、転載)。 |
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金田城跡図(案内板より転載) ![]() ![]() <県道24号線・城山入口(城戸○)から現在地(登山口・蔵ノ内)間(約1.8q)は一部未舗装で悪路のため、運転に注意> |
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| 山の北と西側は自然の断崖で外敵を寄せ付けず、傾斜が緩やかな東側には三つ城戸(きど)があり、そのうち二ノ城戸、三ノ城戸には門の跡が残っています。頂上付近一帯は日露戦争の頃、軍道を整備して砲台が造られました。現在では軍道も格好の登山道として利用されています。平成11年度に発掘調査した二ノ城戸から、城門の跡がほぼ原型をとどめて出土しました。 ※2019年12月18日初訪問。交通手段としてレンタカーも考えましたが、安全策をとり、タクシーにて登山口(蔵ノ内)まで行き、帰りもタクシーに迎えに来てもらいました。厳原中心部(観光情報館ふれあい処つしま)より往復タクシー代約8千円強でした。 登城ルートは、蔵ノ内から、東南角石塁→三ノ城戸→ビングシ門跡・土塁→二ノ城戸→一ノ城戸→大吉戸神社に行き、急勾配の続く北側ルートへと進み旧軍施設へと至り、南西部石塁→東屋→南門→蔵ノ内に戻って着ました。一周した形で、時間は約5時間要しました。特にきっかったのが、上の金田城跡図Dから、鋸割岩、Eに行く登山道(浅茅湾沿いの北・西側ルート)です。急勾配の登り降りもあり膝に負担がかかります。 なお、金田城攻略ルートは、山頂往復コース(登山口〜山頂)、石塁見学コース(登山口〜大吉戸神社)、結合ルート(山頂・石塁を結合するルート。時間・体力が必要)などがあるようです。 |
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| (左)城戸。県道24号線から現在地(蔵ノ内)に向かう道に入った所。道幅はおよそ車1台分です。(中)上の金田城跡図の現在地です(@蔵ノ内・駐車場約5台)。(右)登山道入口(蔵ノ内)。ここから徒歩。まずは東南角石塁を目指します。 |
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| ■東南角石塁■ | |
![]() 登山道 蔵ノ内から東南角石塁に至る旧軍用道。 |
![]() 東南角石塁(南部石塁) 登山道を登りきると、金田城の東南端に位置する石塁が見えてきます。 |
![]() 金田城壁石垣<東南角石塁> |
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![]() 上から見る東南角石塁 石塁左の階段状を降りて行くと、2棟の掘立柱建物跡が上段と下段に残っています。 |
![]() 掘立柱建物跡(上段) 地山を階段状に整地して平場を造り、柱穴(8個)は岩盤を円形に掘り込んでいた。建物の内部と周辺から須恵器、土師器が数百点出土しており、いずれも7世紀後半の遺物である。この地は城の南端に位置し、東部に黒瀬湾を見渡せ、南門にも近いから、この建物の用途としては防備兵の詰め所や見張り場のほか、南門守備の役割も考えられる(案内板より)。 |
![]() 掘立柱建物跡(下段) こちらの建物も建設にさきだって地山を階段状に整地した狭い平場に建てられている。上段の建物跡に比較するとやや小ぶりである。建物内部と周辺から7世紀後半の須恵器、土師器が出土しているが、その数も少なく倉庫等の可能性が高いと考えられる(案内板より)。 |
![]() 東南端石塁の内側 現状をよく留めている内側の石塁。ここから石塁の城外側へと向かいます。 |
![]() 東南角石塁(城外側) 東南角石塁の特徴は、石塁の角部分を前面(外側)に出し、敵の攻撃に備え防御機能を高めた 「張り出し」を構築している。韓国では「雉(ち)・雉城」と呼ばれるこの構造は、国内では他に岡山県 鬼ノ城の「角楼」でも確認されている。金田城では、一ノ城戸とそのほかにも2カ所の張り出しがある。 東南角の石塁は、崩落した箇所もあるが、比較的残りが良く、高さは4m前後と均一である。なお、北東 の石塁部分は崩落の危険性が高かったことから、2013(平成25)年から2カ年かけて修復を実施した。 |
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![]() 東南角石塁下の説明板 次は、写真右下の遊歩道を右奥へ戻り、三ノ城戸に向かいます。右の写真は、右奥の石積部分となります。 |
![]() 石塁が折れる分岐点(張り出し)の崩壊部分 |
| ■三ノ城戸■ | |
![]() 三ノ城戸跡(城門遺構) 城戸は、城の内部と外部を結ぶ城門。城壁の内部に入るためには、数ヶ所の城戸(城門)を通る必要があり、金田城では、一・二・三ノ城戸および南門の4つが確認されている。 |
![]() 三ノ城戸跡(内部側) |
![]() 三ノ城戸跡(外部側) 三ノ城戸は、上流からの流水により破壊されているが、残された石垣は7m近く積まれている。 |
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| ■ビングシ門跡・土塁■ | |
![]() 現在地から見た状況が右写真です。ここより東に150m行くと二ノ城戸へ、南へ150mのところに三ノ城戸があり、調査の結果、城内で最も広い平場であるこの地から門礎石1個と土塁が確認され、門の存在が確認された。しかし、対となるはずの門礎石は発見されなかった。 この付近一帯は土塁、複数の掘立柱建物跡が確認されていることから、金田城の中枢であったと考えられる。図は案内板より。 |
![]() ビングシ門跡 両端の門礎石のうち、左はレプリカ。左奥に進むと二ノ城戸です。 |
![]() 北土塁 右下はレプリカの門礎石。 |
![]() 南土塁 門礎石は当時のもの。 |
| ■二ノ城戸■ | |
![]() 二ノ城戸城門跡 右の「石垣修理平面図」現在地からの眺め。二ノ城戸城門跡は、かねてから柱穴のある門礎石が2石露出しており、また門にとりつく石垣も比較的良く残っていました。平成11年度の発掘調査で、新たな門礎石、敷石などが確認されました。 北側の石垣は、足元を固定するため、礫籠を置いていますが、築城当時は無かったものです。 |
![]() 石垣修理平面図(案内板より) 城門両側の石垣は上半部が崩落して、多くの石材が流出していた。そのため、平成16年度〜平成18年度まで門にとりつく両側の石垣と門跡の側壁の整備をおこなった。 |
![]() 二ノ城戸城門跡(城内入口側) |
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![]() 海側から見た二ノ城戸城門跡(城門入口側) 城門は正面の間口1間(約3m)、奥行3間(約5m)の規模と推定され、城門両側の 石垣は海側から見た高さが5m以上あり、築城当時は威容を誇っていたと想われる。 |
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| ■一ノ城戸■ | |
![]() 一ノ城戸跡 金田城の石塁(石垣)に使用されている石材は石英斑岩と砂岩の2種類です。大部分は石英斑岩を用い、加工せず荒割りした程度で積み上げています。砂岩は一ノ城戸の石垣上部と北側の一部に使用しており、平板状で人為的に加工された感があります(案内板より)。 |
![]() 一ノ城戸跡周辺図(案内板より) 比較的なだらかな東側斜面には石塁が高く積まれ、城の内外を通交するための城戸(城門)が沢ごとに設けられている。 |
一ノ城戸跡の石垣 |
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一ノ城戸跡の水門 水圧による決壊を防ぐため水門は現在も機能している。 |
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※次は、大吉戸神社から遊歩道に戻り、矢印の方向(北・西ルート)に向かい、旧軍施設まで進み、南西部石塁、東屋、南門を経由して蔵ノ内に戻ってきました。大吉戸神社から旧軍施設間の北・西ルートは、登り降りのきつい道が続きますが、途中、鋸割岩や石垣が見られます。 (図は案内板に追記、転載)。 |
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![]() 大吉戸神社周辺 |
![]() 黒瀬湾入口に見える石英斑岩の絶壁「鋸割岩(のこわきいわ)」 |
![]() 急斜面が待つ北側ルートに残る石垣 |
![]() 城山砲台・観測所 |
![]() 頂上部より浅茅湾開口部を望む |
![]() 東屋休憩所 |
| ■南西部石塁■ | |
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| ■南門■ | |
| 南門は平成15年度の調査により、金田城の南を画する石塁、上の標高90m前後の位置に発見された。西側壁(山頂側)は大きく崩落していたが、城門の平面遺構は良好に残っており、東側壁の上部は元々露出していた。城門の規模は間口3.2m、奥行き平均1.84mで東側壁は外側に開いている。床面には階段状に平石が敷かれ、4対の礎石が原位置を保って現存している。このうち扉の軸を受ける軸摺穴を持つ1対の礎石には、水抜きの溝が彫り込まれており、階段式床面構造とともに古代山城では初めての発見である。南門は保存状態も良く、未発見の登城道につながっていた可能性があり、将来に調査研究が望まれる(案内板より)。 | |
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