勝連城
かつれんぐすく
《国史跡・世界遺産》
 勝連城跡は、1972年(昭和47年)5月に国指定史跡となり、2000年(平成12年)
12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産登録が決定した。


四の郭から望む勝連城

手前の平坦部が四の郭。三の郭は、「⊃字型」石垣に沿った坂道(石段)を登った周辺


勝連城鳥瞰図(案内板に加筆)

自然地形を利用した段違いの五つの郭をもつ連郭式の城
三の郭から、二の郭、一の郭と階段状に高くなり、一の郭が最高所となる。


【所在地】沖縄県うるま市勝連南風原
 沖縄本島の中部、太平洋に突き出た勝連半島の根元に位置する高さ約100mの丘陵上に築かれている山城。

【築城年】12〜13世紀頃に築かれた勝連按司の城
【築城者】不明(伝承では茂知附按司) 【遺構】石垣・郭・井戸

【歴史】伝承では、英祖(えいそ)王統第二代大成王(在位1300〜08)の五男が初代勝連按司となり、以後英祖系がつづく。6代目は現在の石川の伊波按司の子、7〜8代は地元の浜川按司、9代目は茂知附按司(もちづきあじ)、10代目が最後の阿麻和利按司(あまわりあじ)。茂知附・阿麻和利時代には海外貿易で栄え、勝連城の全盛期を築く。城跡からは中国の陶磁器片など、多数の交易品が出土した。

 阿麻和利は知謀で按司(在地領主)の座に就いたといい、首里王府もその威勢を恐れ、尚泰久(しょうたいきゅう)王は娘の百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利の嫁にして懐柔を謀る。王婿となった阿麻和利は王位を奪い取ることをねらい、首里の守りとなっていた中城護佐丸按司を謀略をもって討ったが、やがて王軍に攻め込まれて滅びた(1458年)。


《四の郭〜三の郭》

麓から見る勝連城跡

道路を登りきった所が四の郭跡。左端の城壁部分が三の郭門跡。右最高所は一の郭跡



四の郭より望む三の郭跡
 石段を登り詰めた所が、三の郭門跡(四脚門跡・しきゃくもん)。



四脚門跡
 三の郭へ入る門で、発掘調査の結果、木の門であったことが分かった。


《三の郭〜二の郭》

三の郭から二の郭、一の郭を望む

手前の平坦部が三の郭跡。右は四脚門跡。二の郭は石段を上がった部分。その後方の城壁部分が一の郭。


三の郭城壁から見た二の郭、一の郭
 石段上の二の郭と、後方は、最高所に位置する一の郭の城壁。城壁は、ほぼ垂直の絶壁に築かれている。


三の郭から二の郭への石段
 三の郭は、儀式などを行う庭のような曲輪。二の郭は、按司の館、つまり正殿に相当する建物があった所といわれている。



三の郭より一段高い二の郭殿舎跡の礎石群
 建物の柱を支える礎石が整然と並んでいる。大柱を支えた大きな礎石と、小柱の礎石が多数見られる。



一の郭から見下ろす二の郭、三の郭
《一の郭》


一の郭城壁
 城壁は、石灰岩の石垣をめぐらせている。石垣の勾配は垂直に近く、反りもないのは沖縄の城の特色の一つ。


一の郭への石段と石段上は門跡
 この門はアーチ門であった。琉球のグスクは、拱門(石造アーチ式の門)を城門として用いていることに本土の近世城郭と異なる。



一の郭門跡からの眺め

一の郭跡





勝連城跡から眺める海中道路




勝連城跡石碑
勝連城所在地図

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