学習広場から望む復元整備された角楼(左端)と西門

■古代山城(こだいさんじょう)とは
 7世紀の後半、西日本の各地に築かれた防衛施設で、山頂、あるいは山頂から山麓にかけて土塁や石垣による城壁で囲まれています。661年、朝鮮半島に百済救援軍を派遣した倭(わ・日本)は、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて唐(とう)・新羅(しらぎ)軍に大敗します。そのため665年から667年にかけて、国土を防衛するために大野城などの朝鮮式山城を築いたとの記録が残されています。

 鬼ノ城(きのじょう)も、この古代山城の一つと考えられていますが、まったく記録に残されておらず築城時期が不明な謎の城といえます。しかし、現在ではこの文献に記載されていない神籠石(こうごいし)系山城も7世紀後半に築かれたものではないかと考えられています。そして8世紀初頭になると、山城を廃止とする記録が残され、当初の目的である国土防衛としての役割を終えたものと思われます。

※朝鮮式山城~「日本書紀」などの文献に記載されている山城を朝鮮式山城とする。
 神籠石系山城~文献に記載されていない山城を神籠石系山城とし、その立地や切石か割石かの違いなどで、九州型と瀬戸内型(鬼ノ城など)に分かれる。(文は鬼ノ城ビジターセンター説明板より)

 ■鬼ノ城の概要
(以下、各説明文は、鬼ノ城ビジターセンター展示資料・リーフレット及び城内説明板を参照。訪問日・2020年11月再訪問)
昭和61年3月25日 国史跡指定 指定名称は「鬼城山(きのじょうざん)」
平成18年2月13日 「日本100名城」に選定(日本城郭協会)
◆所在地~総社市黒尾

 ここ吉備地方には、大和朝廷が派遣した吉備津彦命(きびつひこのみこと)が人々を苦しめた鬼神(温羅<うら>とも呼ばれる)を退治した伝説が残り、昔話「桃太郎」の原型になったとされています。
 伝説では、鬼ノ城は温羅の居城とされ、吉備津神社や吉備津彦神社のある「吉備の中山」に陣を構える吉備津彦命と、弓矢などで戦いました。標高約400mのこの城は7世紀後半に築かれ、山頂の平坦地を石垣や土を突き固めた土塁が約2.8㎞に渡って囲んでいました。築城当時は、南方面に海が広がっていたと考えられ、遠くに船が行き交う様子を見ることができたと思われます。近隣には、温羅が生贄を茹でたといわれる鬼の釜など、伝説ゆかりの地が多くあります。


◆立地
~吉備高原南縁の鬼城山(標高約400m)を中心に占地
 岡山県には古代山城が二つあり、鬼ノ城はその一つ。もう一つは大廻小廻山城(岡山市東区草ヶ部)。

 吉備高原の南端に位置しており、眼下の総社平野には集落が営まれ官衙(役所)・寺院などが造営された。また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内海への海上交通も至便であり、まさに政治、経済、交通上の要地を一望できる。


※アクセス
徒歩の場合~JR吉備線(桃太郎線)服部駅から約5㎞。
JRの場合~総社駅から車(又はタクシー)で約30分。

◆地形

 鬼ノ城の山容はすり鉢を伏せたような形状をし、山頂付近はなだらかな斜面となっていますが、山の8~9合目より以下は著しく傾斜しています。この山頂部との傾斜が変化する部位に城壁が築かれ、全周約2.8㎞に及んでいます。

(写真)鬼ノ城地形模型(鬼城山ビジターセンター展示物)

※鬼ノ城ビジターセンター
ウォーキングセンター棟と展示棟(ガイダンス施設)の2つからなる建物。展示棟では、鬼ノ城の紹介、また鬼ノ城や西門の模型を展示。

◆城壁

 城壁は版築工法により築かれた土塁が主体をなし、城門が4ヶ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所、また石垣などにより構成されています。特に復元整備を実施している角楼(かくろう)から第0水門までの城壁は、巨大な西門や、ゆるぎなく突き固められた土塁が復元され、当時の雄大な姿や精緻な築城技術を窺うことができます。

西門から第0水門(右下)までの間に復元された城壁

◆城門
 4ヶ所に構築。壮大堅固な西・南門とやや小型の東・北門がある。
      
      西門城外側




西門1階通路
 ◆水門

第2水門の状況。排水のための水門が6ヶ所に築かれている。

◆石垣 

城の東側方向を監視する「屏風折れの石垣」。地形にあわせて大きく張り出しており、広い視野を利用して、城の東側方向への監視ができます。


要所に築かれている高石垣の一つ

上空から見た鬼ノ城全景(鬼ノ城ビジターセンター説明板より)

 城内はおよそ30㏊という広大な面積があり、これまでに礎石建物跡、溜井(ためい・水汲場)、土取場などが見つかっていますが、今後の調査によりさらに新たな発見が期待されます。なお、鬼城山ビジターセンター(ガイダンス施設)が城内への出入り口となります。

◆築城年代
 築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(663年)において大敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡と言えます。

◆鬼ノ城案内図(現地説明板より)

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