神指城(こうざしじょう)

城外側(東側)から望む神指城跡。右側、高い樹木部分は北東隅(高瀬の大木)土塁。左側、樹木部分は本丸跡

【神指城周辺図(現地説明板より)
【所在地】
 福島県会津若松市

【築城年】
 慶長5年(600)

【築城者】
 上杉景勝(上杉謙信は義父にあたる)

【構造】
 平城

【遺構】
 城跡は田園風景が広がっており、遺構はほとんど残っていないが、
 土塁・本丸跡がわずかに見られる。
 

【訪問日】
 2022年5月16日

【アクセス】
 会津若松駅観光案内所にてレンタサイクル(電動自転車)を借りて(有料)訪城。道順については、観光案内所に聞けば詳細に教えてくれるので安心です。約20分ぐらいで着きます。

 


  
【神指城跡】
 神指城は、慶長3年(1598)越後から会津へ120万石で移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に命じて築かせた日本有数の規模をもつ平城です。

 『会津旧事雑考』によると、当初は、会津盆地中央とする予定でしたが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定め、慶長5年(1600)3月18日から築城を開始しました。

 兼続の総指揮により、神指の13ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。領内から12万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を築き、町割まで計画しました。

 しかし家康の上杉討伐令により、6月10日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸は四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣には着工できませんでした。

 面積は、若松城(鶴ヶ城)の2倍約55ヘクタールもあり、毛利輝元の広島城に似た「回」字形をした城郭でした。中央の京・大坂、西の広島、東の会津というように、政治経済の中心拠点にしようと川や運河を利用して築こうとしました。

 慶長6年(1601)に上杉氏は、米沢30万石へ移封となり、城は破城され、更に寛永16年(1639)領主加藤氏が、石垣を総て若松城(鶴ヶ城)に運び去り、神指城は廃城となりました(文と城図は現地説明板より)。
 

高瀬の大木(けやき)

北東隅の土塁と高瀬の大木
 築城前から大木はあったと伝えられている。


上の城跡図「現在地」の状況


神指城本丸跡
 一部が会津北嶺高グランドになっており、城跡説明板が立っています。
<神指城跡をめぐる>
二ノ丸土塁である北東隅土塁(高瀬の大木)・北西隅土塁・南西隅土塁・南東隅土塁と反時計回りに行き、最後に本丸跡を巡ります。

北東隅(高瀬の大木)の土塁
 東から見た北東隅の土塁。この土塁は二ノ丸土塁の北東隅にあたり、左後方が二ノ丸跡になります。右側の大きな大木は「高瀬の大木」です。

城内側から見た北東隅の土塁
 左写真の後ろ側の部分です。

 このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。

北東隅の土塁上に展示している巨石
 この巨石はここより南方300メートルの本丸に慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で昭和58年にここに移し保存するものである(現地説明板より)。
 神指城の石垣は、会津若松城の改修に転用されたため、城跡にはほとんど残っていない。


北西隅の土塁
 右側後方の樹木部分は本丸跡です。

北西隅土塁(左)と本丸跡(右奥)


二ノ丸南西隅の土塁
 下の写真は拡大版です


二ノ丸南西隅の土塁
土塁が約90メートルにわたって現存している。


如来堂
 慶応4年(1868)9月4日、山口次郎こと斉藤一ら新選組隊士が守備したここ如来堂が、新政府軍によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所である。


南東隅の土塁
<本丸の現況>

西から望む神指城本丸全容
 

神指城本丸西口御門
 この場所に下の説明文と予想図がありました。




本丸西口からみた本丸内部


神指城天守閣予定地

天守閣予定地周辺は立入禁止



本丸跡(左)と右奥は北東隅土塁(高瀬の大木)
 城の広さが実感できます。

 
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