【所在地】福島県田村郡三春町 【地形種類】 山城 【文化財史跡区分】 三春町指定史跡 ※藩講所表門(明徳門)は町指定文化財 ![]() 【アクセス】 JR三春駅にレンタサイクルもありますが、三春駅に着いたのが早かったので、タクシー(料金は1.000円強)で三春城の中腹まで行きました。 帰りは、磐越東線郡山駅行き出発時間の本数が少なかったので、三春町役場前からバスにて郡山駅まで帰りました。周辺案内図は説明板より。 |
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【三春城跡】 三春町史跡 三春城跡は、中世から近世の田村地方を治めた大名の居城跡で、三春町中心部の大志多山にあり、その美しい姿から舞鶴城とも呼ばれました。面積は約200.000uで、麓から約100mの最高所に、標高407.5mの四等三角点があります。このうち、本丸や二の丸、三の丸がある中腹以上の約39.500uを、町の史跡に指定しています。また、(公財)日本城郭協会による「続日本100名城」にも選ばれました。 中世 永正元年(1504)に戦国大名の田村義顕(たむらよしあき)が築いたと伝わっていますが、14世紀の遺物・遺構が発見されることから、遅くとも南北朝時代には城館として機能していたようです。当初は、痩せ尾根に沿って棚田のような狭い平場が並んでいましたが、16世紀初め頃に火災があり、その後行われた大規模な造成工事により、現在のような地形が形成されたようです。田村氏は、義顕、隆顕(たかあき)、清顕(きよあき)と3代続きますが、天正14年(1586)に清顕が急死したため、一人娘の愛姫(めごひめ)の夫である伊達政宗が後見して清顕の甥・宗顕を城主にします。そして、正宗はこの城を足掛かりにして南奥羽を制覇しました。この間、城の周囲にたくさんの堀や土塁、石積みが築かれ、三春城は仙道(中通り)を代表する戦国の城砦となりました。 桃山時代〜江戸時代初期 天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより田村氏は改易されました。三春は一旦伊達領になりますが、翌年には会津に入った蒲生氏郷(がもううじさと)の領地に組み込まれ、会津若松城の支城のひとつになります。この時代は、蒲生氏の重臣たちが城代を勤め、本丸周囲に石垣を築くなど城と城下町の整備を進めました。なお、上杉景勝が会津藩主だった慶長3年から6年(1598〜1601)前後は、三春城ではなく郡山市田村町の守山城が支城として使われました。そして、寛永4年(1627)に蒲生忠郷(たださと)が没すると、替って会津に入った加藤嘉明(よしあき)の三男・明利(あきとし)、さらに翌年には嘉明の娘の子である松下長綱(ながつな)が3万石の三春城主となります。松下氏は、三春城を近世大名の居城にふさわしい白壁に瓦葺きの城郭へと改変しました。 江戸時代 寛永21年(1644)に松下氏が改易されると、翌年には秋田俊季(としすえ)が5万5千石で三春に入部し、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。秋田氏は、現在小学校(下写真)がある西の麓に御殿(居屋敷)を建設して日常の政務や暮らしの場とし、山上の本丸御殿は儀式の時にだけ使用しました。 ![]() 近現代 戊辰戦争で、三春藩は図らずも奥羽越列藩同盟に加わりますが、新政府軍の攻撃を受ける直前に恭順し無血開城を果たしました。しかし、維新後は建物のみならず石垣や礎石まで払い下げられ、大正になると公園として整備されました。このため、残された一部の石垣と、切岸や天然の要害の地形に、かつての面影を残すだけとなっています。 戦国時代の構成 江戸時代の本丸上の段を本丸、下の段を二の丸とする絵図もありますが、資料が少ないため詳しくはわかりません。本丸から派生する尾根筋を単位として江戸時代の二の丸や三の丸、宝来寺、国道を挟んで北側の月斎館跡(げっさいたてあと・義顕の弟・頼顕の屋敷と伝わる)など独立した防禦ラインが想定できる大きな曲輪群があり、本丸と並び立つ一族や重臣の屋敷跡と推測されます。隆顕の後室・伊達氏の屋敷跡(東館)と伝わる三の丸周辺には、竪堀や土塁、堀切の跡が見られ、東側の町民の森周辺に石積みが残されています。 江戸時代の構成 蒲生氏が石垣を築き、松下氏が主要な施設を建設しますが、秋田氏は西麓に居屋敷を築いて居所とします。本丸の上の段には、君臣が一堂に会する広間と台所、藩主の控え室となる御座間がありました。下の段には、天守に準ずる三階櫓と、両脇に石垣を配した櫓門の表門、多門櫓状の長屋から連なる石垣の上に架した渡櫓門の裏門といった大型の建築物が平場の縁を巡るように建てられ、城下からは豪壮な城を仰ぎ見ることができたと推測されます。そして、天明5年(1785)の大火で表門を除いてほぼ全焼すると、本丸には代々の将軍から頂いた朱印状を納めた三階櫓のほかは再建されないまま、明治維新を迎えました。(文は現地説明板より) |
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| 【三春城跡概略図】 現在の地形図に、江戸時代の絵図の内容(赤色)と、 現地に残る城の痕跡(縄張図)を一枚にまとめた図です ![]() (現地説明板より) |
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![]() (現地説明板より) |
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| ◆お城坂から竪堀跡・二の門跡・三の門跡・表門跡・本丸と巡り、裏門跡・搦手門跡へ下って行きます(訪問日2022年5月)◆ | |
![]() お城坂 突き当たりには、竪堀跡があります。 |
![]() 竪堀跡 |
![]() 二之門跡 ここから、右折れして本丸に向かいます。左上の道路を上がった先にも本丸への上がり口があり、周辺には、矢倉跡、石垣、搦手門跡等が残っています。右側の案内板のところには愛姫生誕の碑が立っています。 |
![]() 揚土門跡 |
![]() 三之門跡 左に曲がり上がっていくと表門です。 |
![]() 本丸表門跡 後方の建物辺りに三階櫓が建っていた。 |
![]() 本丸表門跡の礎石 |
◆ここから、本丸内の散策です◆![]() 本丸跡は、上下2段に分かれる。現地の標柱は、城図の表門・裏門・三階櫓などが記載されている所には「二之丸跡」の標柱があり、右側部分の広間・台所・御座の間が記載されている所には、「本丸跡」の標柱が立っています(案内図は現地説明板より)。 |
![]() 二之丸跡(本丸下の段) 江戸時代の本丸上の段を本丸、下の段を二之丸とする絵図もありますが詳細は不明です。 |
![]() 二之丸跡 この場所は、三階櫓が築かれていたところです。 |
![]() 本丸跡(本丸上の段) 二之丸跡より一段上に築かれています。 |
![]() 大広間跡(本丸上の段) 本丸上の段には、その他には台所、御座の間などの建物があった。 |
![]() 本丸裏門跡 左側の一段高い所、説明板の後方が本丸跡、右側は二之丸跡になっています。この場所から下へ降りていくと、石垣、矢倉跡、搦手門となります。 |
![]() 本丸裏門外の会津蒲生領時代の石垣 |
![]() 矢倉跡 |
![]() 搦手門跡 地域別訪問城に戻る |