国指定史跡
苗木城跡

苗木城(なえぎじょう)は、岐阜県中津川市内を東西に貫流する木曽川の右岸に一段と高くそびえる城山(高森山)に築かれた。(城山大橋から遠望)
 

 【城データ】
  「築城」1526年(諸説あり) 「廃城」1871年 「主な城主」遠山友政(ともまさ) 「標高」432m 「形式」山城
  
  昭和56年4月22日 国指定史跡
  平成29年4月 6日 続日本100名城
  平成29年9月30日 岐阜の宝もの(東美濃の山城)

 
(左)足軽長屋跡から見た本丸石垣と天守台柱建物

【遠山氏と苗木城】
 苗木・遠山氏は、戦国時代(1526年)にこの地に城を築きました。その後、武田信玄と織田信長が対立する時代、遠山氏は双方と縁戚関係を結びます。

 本能寺の変の後、遠山氏は豊臣氏に城を追われ、徳川氏に身を寄せましたが、関ヶ原の戦い前に家康の指示で苗木城を18年ぶりに奪還し、苗木領1万521石の大名となります。

 それから明治に至るまで260余年、遠山氏は苗木領主として初代友政から12代友禄(ともよし)にわたりこの地を治めました。一般的に1万石の大名は城を持たず陣屋に住みましたが、幕末期の大名のうち苗木遠山氏のみ城持ちでした。

 昭和56年、小藩であるものの戦国時代の面影をとどめている近世城郭であり、貴重であるとして国史跡に指定されました。(現地パンフレットより) 

苗木城跡案内図
(現地説明板より転載。一部加筆)


苗木城復元模型(苗木遠山史料館展示)  山全体に巨岩が露出し、この岩を巧みに利用しながら狭い平場に城郭を築いていました。北側から渦巻き状に三の丸、二の丸、本丸と続き、山の頂上の岩の上に天守が建てられていました。
 模型は幕末頃に描かれた絵図を基に、建物の構造等は推定で製作しました。伝説では赤壁城と呼ばれていましたが、壁の色は当時の壁土に合わせました。
 苗木城の建物の配置状況や規模を知ることが出来ると共に、巨岩と石垣・建物との複雑な組み合わせに驚かされます。(解説板より)
 

◆苗木城跡には、(上)苗木遠山史料館の右側から登って行きます。

 苗木城跡散策

風吹門跡
 苗木城三の丸の出入り口。門を潜ったすぐ左には、大矢倉跡の大きな自然石があり、この岩に風吹門の柱を据えた痕跡が残る。

苗木城風吹門(大泉寺所蔵・苗木遠山史料館展示)
 苗木城の唯一の建物遺構。門には潜り戸が付き、城主在城以外は閉ざされていたといわれている。厚さ約12pの欅材で作られた扉一枚の大きさは横四尺、高さ一間一尺程で、釘を隠すための金物である「八双」、「乳」、「目釘」などは一部は欠損しているが、保存状態は良い。


大矢倉跡
 苗木城最大の3階建ての櫓建築で、2階、3階の壁には矢狭間が設けられるなど、大手門である風吹門や北側からの防御のため作られた。石垣が天然の巨石を取り込み、切込接の石垣で組み上げられている。


大矢倉跡の上層部分

本丸から見た大矢倉跡
 


大矢倉跡から見た三の丸跡、大門跡、本丸
 大門を抜けると二の丸跡となる。
 

大門跡と御朱印蔵跡
 後方上部は本丸跡。苗木城の中で一番大きな大門は、2階建てで、三の丸(手前側)と二の丸を仕切っていた。


御朱印蔵跡
 この蔵には、領地目録など将軍より賜った朱印や宝物が納められ、石垣は亀甲状に積まれている。この場所から本丸に向かって行くと綿蔵門跡があり、その先を左に折れると坂下門跡となる。


坂下門跡
 この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段が良く残されている。坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、またの名を久世(くぜ)門ともいう。


 ■本丸へは、ここから曲がりくねった坂道を登って行くが、その前に二の丸周辺を散策します。


二の丸跡
 領主遠山家の住居や家臣が集まる部屋があった。


的場(まとば)
 苗木城には、弓の稽古場としての的場が本丸と二の丸に設けられていた。二の丸にあたるこの的場は、領主居間の南側、一段と低い所にあった。的場の敷地は長さ30m、幅15m程で、剣、槍、鉄砲の稽古も行われていた。残っている的の土塁(奥の土盛り)は長さ3m高さ1m程で、右側は石垣、左側と奥は土塀で囲われていた。
 右側の石垣上の様子が左写真となります。


二の丸跡から望む本丸
 頂上の天守跡には現在、天守展望台が建つ。


不明門跡
 一段と低い所にある門で、呼び方は「ふめいもん」とも、「あかずのもん」とも言われ、2階建てであった。2階部分は物置に使用され、1階部分(床下)は門になっていた。幅約1間の通用口の両側の壁は石垣で、高さは最大で3.2mある。普段は締め切られ、忍びの門であるといわれているが、現在門から外につながる道は確認できていない。


■再び坂下門跡に戻って本丸を目指します。
 坂下門跡から登って、菱櫓門跡を過ぎると本丸口門跡です。

本丸口門と千石井戸
 千石井戸の西側(右側)にある本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で建てられていたことから、欅門ともよばれていました。
 写真には写っていませんが、石垣左手が本丸に残る的場跡となります。


千石井戸
 苗木城内の井戸で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にもかかわらず、どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられており、千人の用を達するということから千石井戸と名付けられています。

的場跡
 本丸の北東裾にある弓などを練習する場所。奥に「あづち」が残る。


あづち(的をかける場所)
 「あづち」の跡が土盛りとして残り、全国の城でも珍しい遺構である。


武器蔵跡と具足蔵跡
 武器蔵(手前の縦長部分)は、長さ8間(約16m)、奥行3間(約6m)の土蔵。現在は一部建物土台が崩壊しているが、礎石や縁石が往時のままのこされている。
 具足蔵(奥の四角い部分)は、本丸口門(右上奥)から見て右側の崖上にあり、2間3尺、3間の建物である。ここには領主の具足や旗が保管され、別名旗蔵とも呼ばれていた。


馬洗岩(うまあらいいわ)
 天守台跡の南下に大岩があり、馬洗岩と呼ばれている。絵図には「この石廻り二十三間弐尺」とあり、周囲約45mの花崗岩の自然石である。

笠置矢倉跡側から見た馬洗岩

本丸石垣
 左側に馬洗岩が位置する。


天守展望台

本丸玄関

(上)笠置矢倉跡側から見た天守展望台
 展望台は、天守跡に当時の柱穴を利用して建ち、岩を抱きかかえるように積まれた石垣を見ることができる。

(左)本丸玄関跡
 本丸玄関は、天守台より一段低い位置にありました。そのため玄関を入ると、苗木城の特徴の一つである掛け造りの千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。

 玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、整備前の調査でも、多くの玉石が確認されました。
 この石敷きはその玉石を利用して復元したものです。


苗木城天守建物(当時の構造を復元)
  苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。
 1階部分の名称は「天守縁下」、板縁を入れて4m×5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。
 2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6m×6m(三間四方)でした。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。
 3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさでした。
 この巨岩の上の柱と梁組は、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用いたしました。苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。(城跡説明板より)



※各絵図は「苗木城間取り図」(縮尺1/50)から抜粋。苗木城での1間の長さは約2m。(城跡説明板より)
苗木城直行バス(期間限定)
※2019年10月訪城時、中津川駅より直行バス(約15〜20分を利用しました。
苗木城バス停から城跡(三の丸)まで約500mです。

中津川市観光スポットの一つ<馬籠宿>

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