宮崎県日南市飫肥にある平山城。長年にわたって、島津氏と伊東氏の抗争の舞台、せめぎ合いの城。その後、飫肥藩伊東家14代280余年間の居城となる。日南市指定史跡。            
【通称】舞鶴城  【築城年】不明・貞享3年(1686)  【築城者】新納忠続、伊東祐実   
【遺構】石垣・空堀・本丸跡  【再建造物】松尾の丸御殿、大手門、北門
おびじよう
飫肥城
 
【歴史概要】創築の年代は明らかではないが、西南を酒谷川、東北を山川が流れている丘陵にあり、飫肥院の跡と伝えられる。
 康安2年(1362)飫肥城に立て籠った兇徒を、応安2年(1396)土持頼宣が攻略したといわれ、室町時代初期には城が存在したと思われる。長禄2年(1458)島津忠国がこの地を支配し、一族新納忠続(にいろただつぐ)を城主とする。その後島津氏一族が城主となり、両者の間で城をめぐって攻防戦が繰り広げられた。

 天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定で功のあった伊東祐兵(すけたけ)が城主となった。以後伊東氏在城。祐兵は城の改修に着手し、第2代祐慶(すけのり)のときにはほぼ完成した。城は本丸を中心に、松の丸・西の丸・中の丸・今城・中の城などで構成されていたが、震災に見舞われ、伊東祐実(すけざね)の貞享3年(1686)から8年がかりの大改修が行われた。祐実は従来の中の丸に本丸と今城の一部を併せて一区として平坦地とし大手門、犬馬場に石垣を築いて御殿を建設した。

 明治6年(1873)に廃城となり、すべての建物が取り壊された。昭和53年(1978)に大手門が、翌年には城主の居館である「松尾の丸御殿」が復元された。

※飫肥城要図は「日本城郭大系16」より引用させて頂ました。

飫肥城大手門
(城外側)
 大手門は明治時代初めに取り壊されたが、昭和53年(1978)に飫肥城復元事業の第二期工事として歴史資料館とともに復元建設された。

 復元された大手門は木造渡櫓2階建てで、高さ12.3mを計る。


大手門橋から見た空堀跡



空堀跡
 奥の橋は大手門前の橋。

大手門(城内側)



大手門(城内側)
 内部は内枡形の構造。


築地塀と控柱
 戦時には板を渡して、塀上から敵を攻撃するのに用いた。


本丸虎口の高石垣
 
犬馬場から石段を上がると歴史資料館へ至る。犬馬場は、大手門から「松尾の丸」に通じる順路。石段上は歴史資料館。


「松尾の丸」下の石垣

城主の居館「松尾の丸(復元)」
 かつて、今城・中の丸・八幡城などとともに並んだ曲輪のひとつ。30段の石垣上に建つ。


「松尾の丸」御殿内部
 1979年(昭和54年)に、樹齢100年を超える飫肥杉を用材として復元。


市指定文化財 飫肥城旧本丸
 飫肥城は東西約750m、南北約500mの城域に大小13の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。各曲輪はシラス大地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態である。
 戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正15年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。
 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。このうち、元禄6年(1693)に現在の本丸(飫肥小学校グランド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1686)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。


旧本丸跡


旧本丸へと続く石段と石垣

飫肥杉が林立する旧本丸跡
 現在、旧本丸には石垣と飫肥杉だけが残る。本丸は、築城以来3度にわたる地震で崩落。第5代藩主伊東祐実(すけざね)の1693年(元禄6)に、現在の飫肥小学校の用地に移された。本丸跡は、東に隣接する飫肥小学校が大部分を占める。


復元された旧本丸北門(城外側)
 入母屋造り、本瓦葺きの薬医門。裏門にあたる。

 

北側から見た旧本丸北門
城巡りの途中に出会った宮崎県・日南海岸沿いの景色
 
 青島

 
 白浜

 
[飫肥城アクセス]JR日南線「飫肥」駅から徒歩約15分


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