| 国指定史跡 |
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小谷城でもっとも壮大な石垣「大石垣」![]() 小谷城山王丸の石垣遺構 |
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![]() 【所在地】 滋賀県長浜市湖北町伊部 【アクセス】 訪問時(2021年12月再訪問)は、JR河毛駅のレンタサイクル(500円)を利用して、小谷城戦国歴史資料館まで行き、追手道入口から登りました。 JR河毛駅から、ほぼ一直線の道を365号線の交差点“郡上”まで行き、そこを右に曲がり、少し行くと左に行く道があり、あとは道なりに行けば“のぼり”や“資料館”が見えてきます。約15分ぐらいで行けます。公共交通機関を使う場合はレンタサイクルがベストかと思います。 なお、観光シーズン時(4月~11月)には、小谷城シャトルバスが運行しており番所跡まで行けるそうです。 ※地図は現地説明板に追記し掲載。 |
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【地形種類】山城 ![]() 小谷城遠景~写真に写っている山がすべて小谷城跡。左端の山は大嶽(おおづく)跡 |
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【築城年・築城者】小谷城は初代浅井亮政(すけまさ)が大永年間(1521~1528)に築城したものとされています。戦国大名浅井氏3代50年の居城。■浅井氏 浅井氏は、小谷城西麓の丁野(ようの)を本拠とした士豪で北近江の守護大名京極氏に仕えていました。大永3年(1523)浅井亮政ら家臣が京極氏の跡目争いに乗じ京極氏を追放。やがて主導権を握った浅井氏が支配するようになり「北近江」という交通の要所をおさえました。 三代・浅井長政は織田信長の妹・お市を妻にむかえ信長と同盟を結びましたが、信長が浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻めたことから信長との関係に亀裂が生じ、刃を交えることとなり居城である小谷城にて最期を迎えました。 浅井氏は、亮政・久政・長政の三代約50年で滅びてしまいましたが、長政とお市の間に生まれた浅井三姉妹(茶々・初・江)はそれぞれ波瀾万丈な人生をおくり、歴史の舞台に影響を与えました。 ■小谷城とは 小谷城は標高495mの小谷山に築城された中世山城です。中世五大山城にも数えられ、浅井氏三代(亮政・久政・長政)の居城でした。1573年に織田信長との戦いに敗れ落城しましたが、現在でも土塁や曲輪、石垣が残り国の史跡に指定されています。 ■小谷城の戦い 元亀元年(1570)の姉川の合戦にて織田信長に敗れた浅井長政は、小谷城に籠城し信長軍と対峙しましたが周辺の支城は落とされ小谷城は孤立することになりました。長政の要望を受け朝倉義景が小谷城の北方に布陣する一方で信長は虎御前山に城を築き布陣を整えました。形勢不利と見た朝倉軍は越前に撤退、そこを信長軍に強襲され越前にて朝倉氏は滅亡しました。 その後小谷城へ戻った信長軍は秀吉が小丸を攻め、長政の父・久政が自害。そして本丸への攻撃がはじまりました。長政は正室お市と娘の三姉妹を信長のもとへ送り、激闘を繰り広げましたが天正元年(1573)9月1日赤尾屋敷内にて自害しました(文は現地パンフレットより引用)。 ※写真は、JR河毛駅前に建つ「浅井長政公とお市の方」像 |
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【小谷城縄張】![]() (現地説明板より) |
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| 【清水谷麓(開口部)周辺】 清水谷(きよみずだに)は、小谷山山頂の大嶽を詰丸とし、南東にのびる尾根筋に本丸、山王丸など、南西にのびる尾根筋に福寿丸、 山崎丸などを配した二つの尾根に挟まれた谷である。谷の中央に道が通り、浅井氏の居館や寺院、武家屋敷があったところである。 ![]() 小谷山最高峰(495m)の大嶽城跡、清水谷麓の小谷城戦国歴史資料館、追手道入口あたりの眺め。 |
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![]() 小谷城戦国歴史資料館 資料館の手前側の右に追手道入口があります。 |
![]() 追手道入口 突き当たりが入口になり、金網の扉を開け閉めするようになっています。 |
![]() 磯野屋敷跡 追手道を少し進んだ左側にある屋敷跡。磯野氏は、磯野山城を本拠とする国人領主で、浅井氏の重臣である。 写真右奥の金網の扉を開けて登城します。 |
![]() 登山道歩行者ルート 追手道入口からの登山ルートは、東尾根に残る小谷城主要部の番所跡~本丸~山王丸を巡るコースです。なお、登山口は出丸入口もあります。 ※小谷城主要部を巡ります。「小谷城へ登る」をクリックして下さい。 「小谷城へ登る」 ■地域別訪問城に戻る |