【所在地】岡山市丸の内
 JR岡山駅から岡山電気軌道(路面電車)東山線「城下」下車、徒歩10分。画像は現地案内板に一部加筆。
【地形種類】旭川の西方の丘陵を城地とする平山城。
 旭川西方の丘陵の本丸に建つ復元天守。城のある丘は岡山と呼ばれ、岡山の地名の起こりといわれています。宇喜多秀家は旭川の川筋を付け替え、掘った土をこの丘に盛り上げて、岡山城本丸の土台を造った。

【岡山城地図<岡山城の構造>
岡山城は、南(地図下側)と西方向にのみ郭が連なる悌郭式(ていかくしき)と呼ばれる城構えをしており、本丸を中心とし、
二の丸、西の丸、三之曲輪、三之外曲輪、後園、さらに、内堀(3重)・中堀・外堀の5重の堀に囲まれた堅固な城でした。

(岡山市街図に岡山城を再現。地図は現地説明板に一部加筆・掲載)

凡例
   

   
※慶安年間以降にできた施設

【岡山城下町の名称】
 
(現地説明板に一部加筆)
A=柳川交差点 B=城下交差点 C=西丸西手櫓 D=岡山県立図書館 
E=岡山県庁 F=月見櫓 G=天守閣(以上場所は推定です)

※外堀(二十日堀・はつかぼり)は、現在の柳川筋で、明治から昭和にかけて埋められた外堀跡です。
慶長6年(1601年)小早川秀秋(3代城主)が延長約2・5qを二十日間で完成させたのでこの名がつきました。
堀は現在、本丸を囲む内堀が残るのみです。

【岡山城歴代城主】


【岡山城の発展模式図】

(現地説明板に一部加筆)

【岡山城復元天守】
 父親である宇喜多直家の旧岡山城(石山城)を、その子宇喜多秀家が豊臣政権の有力大名らしい城へと、慶長2(1597)年に大改修。金箔瓦を用いた天守を完成させた。
  

天守台は北側に大きく突き出た不等辺五角形をした野面積(のづらづみ)で、岡山城の特徴でもある。
宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用い、高さは14.9mある。


■岡山城のあらまし<岡山城発行リーフレットより全文(紺色文字)転載>
 
「安土城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にて五重・・・」と、古い記録(『岡山城誌』)にもあるように、この岡山城(国指定史跡)は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。

 いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園(国指定特別名勝)」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台という)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。
 かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほどいった、市民会館の建っている側の高台(「石山」という)にあった。天正元年(1573)、宇喜多(うきた)直家(なおいえ)が、当時ここの城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市沼)から移ってきた。

写真(左・右)は、直家時代の前岡山城(石山城)。右写真の石垣は池田時代の遺構。右端の建物は月見櫓。


 今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家(ひでいえ)で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。
 そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。途中、秀吉の朝鮮半島への侵攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。起工以来実に8ヶ年にも及ぶ大事業であった。新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、現在も殆んど昔のまま残っている部分で、面積が約4万uあった。
 秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45m、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも鳥(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、「鳥城(うじょう)」の別名がある。壁が黒いのは、戦国時代の名残りである。

 また天守閣の内部には、かつて城主が生活をしていた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。かつての岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日堀ともいわれる)までで、建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時はわが国を代表する名城であった。

 しかし明治2年(1869)、岡山城は国の所有となったものの、これら全ての建物を維持していくことができず、明治15年(1882)以後に残されたものは、僅かに天守閣・月見櫓・西丸西手(にしまるにして)櫓および石山(いしやま)門の4棟であった。
 その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、昭和20年(1945)6月29日の早暁、第2次世界大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は全く旧来通りに再現された。また同時に、不明(あかずの)門・廊下門・六十一雁木(がんぎ)上門、それに周囲の塀なども、古い絵図面に従い、外観が旧来通りに再現された。


石山門跡
 石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西の丸の石垣(右側)と南側の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路になっていた。岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)の岡山大空襲により焼失。石垣に残る赤茶けた焼き跡が空襲の激しさを今に伝えています。


旧岡山城(石山城)から見た西の丸跡(樹木部分)
 西の丸跡(旧内山下小学校)には、重要文化財の西丸西手櫓が現存。
 

(現地説明板より)

 この本丸内で戦火を免れた唯一の建物は、中段=表書院跡=の北西隅に建つ月見櫓(国指定重要文化財)である。これは岡山城第5代城主、池田忠雄(ただかつ)によって、元和・寛永年間(1615〜1632)に建てられたものである。この名称のある建物は、全国的にも極めて数が少なく珍しい遺構である。この櫓は、文字通り「月見」という風流を楽しむために用いられたようだが、本来の目的は、この中段=表書院の北西を防衛するためのもので、櫓自体も武器の貯蔵庫になっており、隠し銃眼(鉄砲を撃つための狭間)や中世的な石落としの装置などが設けられている。
 またこの付近にある塀の土台石には、全国的にも珍しい、当時の最新式装備の銃眼石(石狭間、狭間石ともいう)を並べている。またそのそばには、穴蔵式の火薬貯蔵庫・古井戸・流し台なども残っていて、昔を偲ぶよすがとなっている。

月見櫓付近にある塀の土石台の銃眼石

 さて石垣に目をやると、現在広い範囲に残っている石垣の殆んどは、昔のままの状態で保存されていることで、全国的にもあまり例がない。特に貴重なのは、天守閣を中心にこれを広く取り巻く石積みが、丸い形の自然石を用いた野面積であることである。これは日本全国に近代的な城づくりが始められた頃(安土桃山時代の初め)の古い形式のもので、貴重な文化遺産である。
 一方、月見櫓を支えている付近の石垣は、前の野面積とは異なり、石の周辺を平らに加工した割り石を用いた石積みで、石の周囲の隙間に詰め石(小詰、合石という)を施した打込接(は)ぎという工法である。「扇の勾配」とも言われるように、石垣のカーブの美しさが特徴である。
月見櫓

 岡山城本丸の下段には、南から西にかけて、城を取り囲むように造られている堀は内堀で、ほぼ昔の原形をとどめている。また、ここへ通じる橋(内目安橋、内下馬橋という)の城側の手前には、巨石で築かれて四角な場を形成している。「升形(ますがた)」と呼ばれるところで、本丸の正面入口に当たる城門のあった場所である。これらの石垣も含め、岡山城で使われている石の全ては、花崗岩の宝庫である瀬戸内海の犬島から運ばれたものである。
 

 鉄門(くろがねもん)跡の石段を上った中段広場(写真・下左)は、「表書院」と呼ばれ、かつては備前(岡山)藩の政治を行なうための建物(写真・下右。今の『県庁』に相当する)が立ち並んでいた所で、65室の部屋と庭園があった。
        
        鉄門(くろがねもん)跡。下段の南側
から表書院へ通じる櫓門。木部の全体を鉄板で覆った門。


※岡山城の史跡整備のみどころ
 写真(上)左側の池は、表書院の中庭にあった泉水(せんすい)を復元したもので、発掘調査で出土した遺構は地下に保存されている。水が漏らないように底に漆喰を貼り、北東の井戸から備前焼の土管で給水する仕組みで、中の島に湧水口を設けていた。また、地表面に明治維新を迎えた時の表書院の建物の間取りを標示している。

(現地説明板に一部加筆)

 「不明門(写真・右。再建)」を通り抜け、石段を上りきった天守閣のある上段は「本段(写真・下左。天守からみた本段)」と呼ばれ、城主自身の生活に必要な建物が立ち並んでいた所で、築山や池のある庭園も作られていた。この広場の南東の一画には、天守閣の礎石を整然と並べた場所(写真・下右)がある。


天守から見た本段部分


天守閣の礎石
 天守閣は昭和20年6月の戦火で焼失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため礎石のみをここに移し、元の通りにに配置している。

 なお、戦火を免れたもう一つの建物は、国指定重要文化財の西丸西手(にしまるにして)櫓が残存。西の丸は慶長8年(1603)に岡山藩主となった池田忠継が幼少であったため、代わりに岡山城に入った兄の池田利隆によって整備された曲輪で、櫓もその頃に建てられたものとみられます。西の丸はその後、広大な御殿が整備され、寛文12年(1672)に隠居した池田光政をはじめ、隠居後の歴代藩主と家族が住みました。
西丸西手櫓(城内側)



西丸西手櫓(城外側)
(文は現地説明板より)
 櫓の構造は塗籠造り、2階建。部屋は入母屋造、本瓦葺で大棟両端に一対の鯱をのせ、鬼瓦は池田家の家紋である揚羽蝶文で飾り、1階の西面には唐破風が設けられています。1・2階とも桁行(南北)5間(10・36m)、梁間(東西)3間半(7・27m)、の平面は長方形で、棟高35尺(10・60m)の規模です。
 1階は城外側(西)壁面には壁から張り出した石落し(俯射装置)と格子窓が二か所設けられ、南北両面に入口、東面には二か所の小窓が設けられています。内部は土間で梁材がむき出しのままの簡素な造りで、武器や兵糧の保管場所としての性格がうかがえます。
 2階は南・西・北の三面は堅牢な格子付きの出窓を設けて城外への視界を確保し、内部も板張りの廊下を設けて守備兵が迅速に動けるようになっていますが、東面(城内側)の窓は広く開放的で障子や雨戸が入り、内部は座敷になって天井板も張られ、床の間や押入も設けています。こうした造りは戦乱の危機が低下した時期になって改装された結果と考えられますが、戦闘防衛と日常生活の両方の性格を兼ね備えた構造となっています。
 岡山城にはかつて天守閣のほか34基の櫓がありましたが、現在では本丸の月見櫓西丸西手櫓を残すのみです。

       
       池田光政公隠居所跡。樹木でよく見えませんが、白いが西丸西手櫓。

 旧内山下小学校の校地は、江戸時代には岡山城二の丸西丸であり、池田光政公がこの場所を隠居所にしました。光政公は、寛永9年(1632)に国替えで鳥取藩主から岡山藩主となり、行政組織の改革、法制規則の整備、新田開発、教育の普及と学校整備、宗教施策の制定などの治績を残し、藩政を確立した名君と称されています(説明板より)。
 
【文化財指定区分】
国指定史跡(岡山城本丸)
国指定特別名勝(後楽園)
国指定重要文化財(月見櫓・西丸西手櫓)

【遺構】

月見櫓・西丸西手櫓・本丸・後楽園・石垣・内堀・旧本丸

【岡山城の史跡整備】
<発掘調査で発見された地中に埋もれていた石垣の実物展示>
[宇喜多秀家が築いた中の段の西辺石垣]
 もともと、石垣は南辺にも続いていたが、城を改造する時に石を抜かれたため南辺の石垣がなくなっている。抜かれた石垣は新たに築かれた外側で現役の石垣に転用されたと考えられる。

 石垣の本来の高さは10mほどあり、下の段から積まれている。頂部は壊れているが上方の高さ約3m分を露出展示している。石は主に花崗岩で、加工を施さない自然石を横向きに積んでいる。


 石垣を埋め込んだ造成土からは、金箔をおした桐の文様の瓦が、平成8年に出土した。桐は宇喜多秀家が豊臣秀吉が家紋として与えられたもの。この石垣の上、つまり秀家期の中の段には、こうした瓦を葺いた華麗な建物があった。


[角が尖った珍しい石垣]
 石垣の辺と辺がなす角度は70度。これほど角が尖った石垣は全国的にみて非常に珍しいものです。

平成5年度の発掘調査で発見された埋没石垣。
 江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく広げたために埋没した。

赤枠が左写真の展示部分。
 拡張後の中の段には「表書院」の御殿が建てられ、この場所の真上は台所になった。


【再建造物】

廊下門
 本丸の搦め手にある城門。城門奥の石段上は「中段」。門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていた。部屋は本段と中段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されており、廊下門と呼ばれていた。現在の門は1966年に再建された。



不明門(あかずのもん)
 本段御殿の正門。中段から本段への上り口にある櫓門。本段御殿と表書院(中段)の往来には北側の廊下を通ったため、この門は平素は閉じられていた。1966年(昭和41)、鉄筋コンクリートで復元。


六十一雁木上門(ろくじゅういちがんぎうえもん)
 本段から川手に通じる石段道の上にある門で、段が61段あったことからこう呼ばれた。本来は高麗門であったが、1966年に簡素な薬医門形式の木造で復元。



戦災前の岡山城天守
 

【重要文化財建造物】
国指定重要文化財 岡山城月見櫓
 月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三(ひふみ)の段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き2階建てで、城外(北西)側から眺めると2層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると3層の層塔型の景観を呈しています。
 規模は、地階と1階が桁行(東西)32尺3寸(9.79m)・梁間(南北)26尺2寸(7.94m)・2階が方形で桁行・梁間とも16尺5寸9分(5.03m)、棟高45尺4寸(13.67m)です。

月見櫓(城内側)
 2階の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっている。


月見櫓(城外側・北面)
 1階には石落し付きの出格子窓、2階には唐破風造りの武者窓を設けて城外側への備えを厳しくしている。その一方で、城内側は回廊造りである。


国指定重要文化財 岡山城西丸西手櫓

城内側
 
城外側
 西丸西手櫓は、岡山城本丸の外周を固める帯曲輪である二の丸内屋敷の西の郭西端を守る隅櫓。


岡山城本丸へ入城