佐賀藩主・鍋島36万石の居城
《佐賀城》
日本百名城/本丸御殿再建

【所在地】佐賀県佐賀市城内
【別 名】沈み城。その名は、城から遠ざかるにつれ、壮大な天守が楠や松の林に視界を遮られることに由来するという
【地形種類】四周を幅の広い堀で囲まれた平城
【文化財指定区分】「佐賀城鯱の門及び続櫓」が国の重要文化財
【歴 史】戦国期に西九州を席捲した龍造寺氏が本拠としていた村中城の地に建つ。龍造寺氏の衰退をうけて、重臣・鍋島直茂が領主となり、慶長13年(1608年)、旧主の村中城を拡張・整備し、城名も改めた。直茂の子勝茂が初代佐賀藩主となり、慶長16年(1611年)に総普請を完成し本丸に入る。

 その後、佐賀藩は、11代直大のとき明治維新を迎える。江戸時代の佐賀藩は、外様各藩の中でも、8番目の石高を誇り、藩祖鍋島直茂から11代鍋島直大まで260年もの長きにわたり、安定した藩政が行われていた。


「佐賀城鯱の門及び続櫓(重要文化財・昭和32年6月8日指定)

天保7年(1836年)に建立。屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と呼ばれる。左が続櫓

「佐賀城鯱の門及び続櫓」について
 本丸御殿は慶長13年(1608年)から慶長16年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726年)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。

 ところが、この二の丸も天保6年(1835年)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。10代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838年)の6月に完成したものです。明治7年(1874年)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の激しさがしのばれます。

 門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています(文は現地説明板より)。


天守台から見た「鯱の門」



城内から見た「鯱の門」
「佐賀城鯱の門」


城門の扉(表側)

城門の扉(裏側)


門扉に残る無数の銃弾跡
 明治7年(1874)の佐賀戦争における激戦の様子が窺える。



城門の名の由来となった鯱
 高さ約1.7mの青銅製。
「天守台」

高さ約9m、南北31m×東西27mの巨大な天守台の上に享保11年(1726年)の火災で焼失した天守が建っていた。
江戸城の天守が焼失以来再建されなかったこともあり、佐賀藩では、幕府への遠慮もあり、佐賀城の天守は再建されなかった。



天守への通路
 切石と自然石が巧妙に配置されている。

石垣の刻印
 天守台の石材の一部には、様々な模様が刻みこまれる。諸大名を動員して築かれた「天下普請の城」において、刻印はよく利用されるが、大名の居城の石材では類例が少ない。


「佐賀城本丸御殿」
 藩政の中心だった二の丸が、天保6年(1835年)に焼失したため、10代藩主鍋島直正が再建。その後、昭和32年(1957年)までに鯱の門を除いてすべて解体された。平成16年(2004年)、御玄関、御式台、御料理間、外御書院、御座間等から構成される本丸御殿が木造復元され、佐賀城本丸歴史館として開館した。

本丸御殿御玄関(左)と鯱の門(右)



左より、本丸御殿の御三家座、御小書院、御座間。左端石垣は天守台



「復元・整備」


水堀
 佐賀城を囲む堀幅は約40m。

南西隅櫓台
 切石による「亀甲乱積」という手法で積まれている。


石製樋管と赤石積水路
 西側土塁石垣の下を潜る水路と、
これに続く赤石を用いた当時の水路。


本丸御殿(佐賀城本丸歴史館)内部

本丸御殿の旧礎石

御殿内から見ることのできる旧礎石の一部。
旧礎石はそのままの状態で保存され、復元された御殿はその上に建造。


佐賀城周辺図
 JR佐賀駅よりバスで約10分。徒歩約30分。

(佐賀城本丸歴史館パンフレットより)














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