佐和山城
[滋賀県彦根市]
【歴史】
 佐和山のある湖東地方は、東山道・北国街道そして琵琶湖をひかえた交通の要衝であり、戦略上の拠点として、古来から幾度となく戦乱の舞台となりました。

 中世に入り、近江を治めた佐々木氏が、近江南部の六角氏と近江北部の京極氏に分かれると、両雄の勢力の境に佐和山も要害の地として城が築かれ、武士化した在地の小領主を巻き込んだ攻防戦が繰り返されました。

 そして戦国時代、京極氏の被官から勢力を伸ばした浅井氏と、尾張から天下統一をめざした織田信長との間で、佐和山城争奪戦が展開されます。その後、信長と豊臣秀吉の下でしばしの小康状態を迎え、石田三成が城主(1595〜1600)となって城の規模も拡大されますが、関ヶ原の戦い後に落城し、やがて廃城と化しました(現地説明板より)。
【所在地】
 佐和山城跡は、JR琵琶湖線「彦根駅」の北方、小高い山容を見せる標高233メートルの佐和山(左上の写真)にある山城。
   
【登城口】
 佐和山城西側の麓にある龍潭寺(りょうたんじ)の境内を抜けて行く。彦根駅から龍潭寺まで徒歩約15〜20分。龍潭寺から本丸まで急な坂道がつづくが、20分ほどの道のり。
【大手門跡】
 彦根駅から8号線に出てトンネルをくぐり、降っていったところの左手にある。大手口跡から城跡には訪城出来ません。彦根駅から大手口跡まで徒歩約30分。
 大手口跡へは、彦根駅レンタサイクル(彦根城側に有り)を利用しましたが、佐和山トンネルまでなだらかな坂道が続き大変でしたが、トンネルを過ぎると下り坂になります。また、彦根駅から8号線に行くまで少し複雑な道なので、地元の方に聞いた方が良いと思います。訪城日は2019年11月(2度目)。
【佐和山城絵図(現地説明板に追記)
 石田三成の時代には、山上に本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などが連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、2重に巡らせた堀の内には侍屋敷、足軽屋敷、町家などの城下町が建設され、佐和山西麓には琵琶湖の松原湊につながる百間橋が敷設されました。
【築城年・築城者】
 
鎌倉時代、佐保時綱の築城と伝わる。別名は佐保城。
【遺構】

 土塁、曲輪、持ち運びを免れたわずかな石垣、井戸、竪堀、伝佐和山城門(写真下/彦根城に隣接する夢京橋キャッスルロードにある宗安寺)など。彦根城築城とともに廃城となり、建物のみならず、石材も彦根城に転用され、往時の遺構はほとんど残されていない。
              
【佐和山城ゆかりの戦国武将】
■石田三成(1560〜1600)
 近江国坂田郡石田村(現在の長浜市)で生まれた三成は、羽柴秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、秀吉の側近として仕え、次第に能吏としての手腕を発揮しました。秀吉の天下となってからも、検地などで大きな役割を果たし、五奉行筆頭に数えられた三成は、佐和山城主に封ぜられました。

 三成の時代に、佐和山城は、城下とともに整備され、一説には、五層の天守を備え、松原内湖には松原まで百間橋を渡すなど、「三成に過ぎたるもの」とまで言われた城であったと伝わります。

 秀吉亡き後、三成は、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を立てます。家康が諸大名を従えて上杉家の征伐に赴いたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。

 戦いは、東軍の勝利に終わり、佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始めとする石田一族の多くが討死しました。三成は湖北に逃れますが、ほどなく捕縛され、斬首されました。三成の死後も、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めたといいます(現地説明板より)。

※「治部少(じぶしょう/石田三成の官名・治部少輔)に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」と落首によまれた。

 ■佐和山城跡 大手口跡■

(後方は佐和山城跡)
 東山道(のちの中山道)側に開いていた佐和山城正面の大手口の跡です(下の佐和山城跡遺構概要図の現在地のところ)。かつて、ここには大手門が築かれ、左右には土を盛って築いた土居(土塁)が伸びていました。大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門(赤門/上記掲載写真)と伝えており、左右の土居は現在も比較的良好に残っています。土居の前を流れる川は、かつての内堀でした。今はコンクリート壁の狭い川ですが、往時は並行する道路近くまで広がっていたと考えられます。

 こうした土居と内堀に守られた内側には、本丸に向かって伸びる登城道の両側に、侍屋敷が軒を連ねていました。侍屋敷は、本丸から伸びる2つの尾根に挟まれた広大な地を占めており、客馬屋や獄屋なども存在したようです。侍屋敷に居住した武士たちは、戦となれば両側の尾根に籠もって、大手からの敵を挟撃することのできる優れた縄張りとなっていました。

 一方、内堀の外側は、内堀に沿った本町筋を中心に町家が存在しました。その広がりは、外堀の機能を持った小野川を超えて、東山道辺りにまで及んでいたようです(現地説明板より)。

[佐和山城跡遺構概要図(現地説明板より)]

(現在地が大手口跡)


米原方面に伸びる8号線。左の白い軽四が出てくる道を左に曲がった所が大手口跡。この場所から見た大手口跡が右写真です。


8号線沿いから見た大手口跡。中央の川が内堀跡、鉄塔下の草木が生い茂っているところが土居(土塁)跡になります。

大手口跡の状況。右側は大手口跡説明板です。


白枠部分が土居(土塁)跡。草木に覆われた状態ですが、形態は確認できます。


内堀跡。内堀の左側は土塁。


本丸に向かって伸びる登城道。


 ■佐和山城跡 山上部分■


石田三成屋敷跡
 江戸時代に作られた「佐和山古図」では、佐和山の西山麓に石田屋敷や馬屋・米蔵・侍屋敷などが描かれており、途中で大手方面が変わったことを示している。


佐和山城(山上)への登城口である龍潭寺
 龍潭寺境内を通り、登り口へ向かいます


龍潭寺境内の石田三成銅像


登り口付近

「かもう坂通り往還」付近
 この尾根は、鳥居本からのかもう坂、長寿院からの登山道との合流点になります。ここの見どころは切通しです。

西の丸入口付近
 西の丸は本丸の北西に広がる3段の曲輪で、この曲輪(下段曲輪)はその最北端に位置します。眼下には「かもう坂通り往還」(通称「龍潭寺超え」)を見下ろし、その立地より搦め手からの敵の侵入を防ぐ役割を担っていたと考えられます。この曲輪の北面と西面には土塁が廻り、水の手に向かって竪土塁が築かれていますが、これらは一連で城外への防御ラインと考えられます。


西の丸跡の塩硝櫓跡入口
 写真左下(北西端部)の凹みが謎の土抗。

謎の土抗
 用途は不明。周辺には瓦片が散乱しています。城が機能していた当時、この曲輪には何らかの瓦葺きの建物が存在していたと考えられます。


(上)土塁
 右の西の丸周辺測量図の土塁です。
(右)西の丸周辺測量図(現地説明板に追記)
 測量図の土抗・土塁は、上の写真です。現在地は西の丸(下段曲輪・塩硝櫓跡)跡です。
 現在地から上段曲輪に向かう右側に幾筋かの竪堀が見られるとのことです。確定できませんが、ご批判を覚悟の上、あえて下に写真を載せます。



竪堀(?)
 右側が竪堀と考えられます。奥に進むと西の丸の上段j曲輪となります。


竪堀(?)

西の丸跡(上段曲輪)
 右上の西の丸周辺測量図の上段曲輪部分。西の丸は、本丸の北西に位置し、「かもう坂通り往還」(通称「龍潭寺超え」)の切通しから本丸へ至る途中に築かれた丸である。
 次は本丸へ向かいます。


本丸への入口
 急な坂道を登りきると平らな山頂に出ます。ここが本丸跡です。

(上)本丸跡
 関ヶ原の戦い後、佐和山城は東軍の攻撃を受けて陥落。その後、徳川四天王のひとりである井伊直政が旧石田領に配されると、井伊家は佐和山城を廃棄して彦根城を築いた。その際、天守などの建築資材が利用されただけにとどまらず、石垣も崩され、資材として輸送された。
 かつての佐和山城は、石垣によって強力に防御されていたが、現状では土塁で守られた「土の城」のような姿となっている。ただ、本丸の一角には持ち運びを免れた石垣がわずかに残されている。
 井伊家は、名君として領民に親しまれた三成の記憶を消し去るためもあり、石材までも運び去り、佐和山城を徹底して破却しょうとしたともいう。わずかに残された石垣を目にすれば、いかに井伊家が三成という存在を恐れていたかを知ることができよう(小学館/週刊真説歴史の道NO9参照)
(左)本丸跡遺構概要図(現地説明板より)
 この場所の見どころは、隅石垣と千貫井です。現在地の所には城跡説明板が立っています。
 かつて本丸に存在したであろう天守台や枡形(入口)などの遺構は、ほとんど確認することができません。本丸は大規模な「破城」(城の破壊)があったと考えられます。

千貫井(せんがんい)と名づけられた井戸
 南西の山腹に穿たれた「千貫井(右側の窪地)」は、山上に築かれた城にとって千貫にも値する貴重な井戸であった。

持ち運びを免れた本丸の隅石垣
 この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部であったと考えられる。本丸跡の外周を測量調査したところ、ほぼ同じ高さの7箇所で新たに基底部らしい石垣が見つかった。本丸跡の石垣の想定ラインを復元する上で貴重である(現地説明板より)。


本丸跡の佐和山城趾石碑

佐和山城本丸跡より彦根城天守を望む

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