| 高鍋城 たかなべじょう [宮崎県児湯郡高鍋町] |
二の丸 岩阪門跡![]() |
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| 岩坂門は、三の丸から二の丸に向かう正門で、大手筋であった。旧城内は、現在、 舞鶴公園として整備され、岩坂門は公園入口になり、門前が駐車場となっている。 |
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【構造】 天然の要害を巧みに利用し、丘の中腹に心臓部の本丸を設け、一段下がった平地を二の丸、更に下った所を三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に堀切を設けた平山城。 |
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【遺構】 石垣、堀、曲輪跡、建物跡などが残る |
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【沿革】 もと財部城(たからべじょう)といったが、のち高鍋城に改め、通常は舞鶴城と呼ばれている。築城年は不明であるが、柏木左衛門尉が築城したと伝えられる。平安時代後期に財部(現在の高鍋)の士豪であった土持氏の所有となり、在来の城を補修し、以後およそ600年に渡り、代々土持氏の居城であった。 その後、城主は伊東氏、島津氏となり、1587年(天正15)、豊臣秀吉の九州征伐後には、筑前国から秋月種実(あきづきたねざね)が日向串間へと移封になり、高鍋(当時の地名は財部)は秋月氏の領地となり、財部城(のちの高鍋城)は秋月氏の持ち城となった。 1604年(慶長9)、秋月種長(たねなが)が財部(高鍋)に入封、財部城を修復して居城とした。財部藩(高鍋藩)初代藩主となる。1673年(延宝1)、3代藩主種信(たねのぶ)は、「財部」から「高鍋」に地名を改称。高鍋城は、秋月氏10代に渡って、高鍋藩・秋月氏2万7千石の居城として明治の廃藩に至るまで続いた。 |
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【高鍋城本丸跡】![]() 政庁・奥御殿が建っていた |
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本丸跡に残る御殿跡の礎石![]() |
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高鍋城本丸政庁・奥御殿跡(現地説明板より) <現地説明板の説明文内容>高鍋城本丸、奥御殿は第三代藩主、種信公の延宝四年(一六七八)に完成した。 長峰御門(本丸北側)を過ぎると本丸の玄関があり、玄関を上がると藩士の集まる大広間がある。その他藩主が藩臣とお逢いになる御書院、家老や奉行が藩政をとりおこなう家老所、奉行所などがあった。 奥御殿が完成すると同時に藩主は二の丸の仮住居から転居され本格的な藩政の充実と発展に向って邁進なされた。 |
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![]() 本丸から、本丸の背後にある「詰の丸」へ至る登城道入口 |
![]() 登城道途中から見る「詰の丸」下に残る石垣 |
![]() 慶長期のきれいな打込接(うちこみはぎ)の高石垣(写真左・右) ※打込接〜積み石の接合部分を加工して、石どうしの接合面を増やし、隙間を減らした積み方。この石垣の高さは、7m以上に及ぶ。 |
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米沢城(山形県)内に建つ上杉鷹山公像![]() 日向高鍋藩主第6代・秋月種美の次男は 米沢藩に入り、名君で有名な上杉鷹山(治憲)となる。 |
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上杉鷹山公![]() (米沢城内の説明板より) |
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「高鍋城周辺略図」![]() <アクセス>JR日豊本線「高鍋駅」より車で約10分。 二の丸岩坂門前が駐車場。 地域別訪問城に戻る |
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