最北の古代城柵官衙遺跡
秋田城
■所在地:秋田県秋田市寺内大畑
■アクセス:秋田駅よりバスで約20分。「将軍野線」もしくは「寺内経由土崎線」乗車。バス停「秋田城跡歴史資料館前」下車。徒歩3分
■現況:発掘調査で発見された遺構を現地に復元し、史跡公園として整備。写真は鵜ノ木地区復元建物群跡。左側の建物は古代水洗トイレ(復元)
      

■主な復元・整備:政庁域(建物跡・築地塀・門など)、外郭東門、築地塀、建物群跡、古代沼、古代水洗トイレ、大路


政庁内部~平面表示による建物復元


政庁を囲む築地塀と門

(上)外郭東門と築地塀。道は大路

(右上)鵜ノ木地区復元建物群跡
 この地区では、井戸跡、古代水洗トイレ、沼、住居跡などが復元。

(右下)
古代沼



訪問日:2021年4月再訪問
  
【秋田城とは】
 秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国)に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に、同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡(じょうさくかんがいせき)」と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。

 天平5年(733)に、秋田村高清水岡に遷された当初は「出羽柵(いではのき)」と呼ばれ、天平宝字4年(760)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(北海道)のほか、大陸の渤海国(ぼっかい・中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。

 平安時代に入り、元慶(がんぎょう)2年(878)の蝦夷の人々による元慶の乱を経て、10世紀の中頃まで機能しました。10世紀後半には古代城柵としての機能は失いますが、歴史書には「秋田城」の名称や官職名としての「出羽城介(でわじょうのすけ)」、「秋田城介」が記されています。また、鎌倉時代以降、「秋田城介」は北方を鎮護する役職名となり、武門の名誉となっていきました。

 昭和14年には遺跡の重要性が認められ、国の史跡に指定されています。現在は約90㏊(893.733㎡)の範囲が指定された範囲となっています。
(文と案内図は現地説明板より)

【秋田城の構造】

<史跡秋田城跡模型>
 秋田城は発掘調査によって、東西・南北550mの不整方形の範囲を外郭区画施設が巡り、中心部に東西94m、南北77mに区画された政庁域がある二重構造であることがわかりました。

 外郭区画施設は、奈良時代では土塀に屋根を上げて瓦で葺いた築地塀であることがわかっています。築地塀は本体は土を数㎝の厚さに叩き締めながら、基底幅2.1m、高さ3m以上に積み上げられた手の込んだものです。平安時代は築地塀から材木を立て並べた材木塀になることもわかっています。これらの外郭区画施設は、総延長2.2㎞に及ぶ大規模な土木構築物です。こうした外郭区画施設の内側である「城内」に様々な施設がありますが、外側の「城外」にも重要な施設があったことがわかっています。
(文は現地説明板より。模型は秋田城跡歴史資料館展示品。写真に文字を一部追記)

【秋田城跡の調査・保存・公開活用】
 昭和34年から37年までの4年間は国が直接発掘調査を行いました。そして、昭和47年からは秋田市が継続的に発掘調査を行っています。

 発掘調査によって明らかにされた秋田城の遺構を現地に復元し、平成元年度から史跡公園として整備しています。また、平成28年度には秋田城跡歴史資料館(右写真)がオープンし、これまでの発掘調査で発見された貴重な遺物を多数展示し、秋田城について詳しく解説しています。
(文は現地説明板より)

秋田城のみどころ

復元された秋田城の中心施設「政庁」
【政庁の機能】
 政庁は、秋田城跡で最も重要な区域です。政庁内の建物である正殿やその前面の広場では出羽国の政務を執り行ったり、定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷の人々を迎え、味方に引き入れる目的で、位階や布などを与えたり、宴を催したりしていました。
 また、文献史料や水洗厠舎跡から検出した有鉤条虫卵(ゆうこうじょうちゅうらん)の存在から渤海など外国からの使節を迎えての儀式も行われていたと考えられます。
【政庁の特徴】
 秋田城跡の政庁は、東西94m、南北77mの東西に長い長方形をしています。南を正面とした場合、横長となる政庁は、古代東北の城柵では唯一の例です。
(文は現地説明板より)


復元された政庁を囲む築地塀と門


北東建物跡
 ここでは5回建替えられた建物跡が見つかっています。

政庁域南東隅部
 この場所が政庁の南東隅部分です。復元された北東隅部(写真奥)からの距離は約77mあります。

【政庁の変遷】
 政庁は、区画施設や正殿などの建物の建替えなどから、おおよそ6時期の変遷があったと考えられますが、その中でも大きな変化は、第3期、第5期、第6期に認められます。
 第3期では、政庁域全体で大規模な整地を行い、創建から政庁を囲っていた築地塀をやめ、柱を等間隔に立て並べその間を横材などでふさいだと考えられる一本柱列塀にするなど、全面的な改修を行っています。
 また、第5期は878年(元慶2年)に起きた蝦夷の反乱(元慶の乱)の時焼失した後建造したもので、政庁を囲っていた一本柱列塀を材木を隙間なく立て並べた材木列塀に変えたほか、門の構造や建物配置も大きく変化させています。
 さらに、第6期では正殿や東脇殿といった主要な建物が直接地面に柱を埋め込む掘立柱式建物から石の上に柱を立てる礎石式建物に変わっています(文は現地説明板より)。

(変遷図は現地説明板より)


政庁第1期復元模型

政庁第2期復元模型


政庁第3期復元模型

政庁第1期
 政庁は、秋田城の前身の「出羽柵」創建とともにその中心施設として造られました。政庁内の中心建物である正殿は、白壁で床には塼(せん。古代の煉瓦)が敷き詰められていたことや、政庁を囲っていた築地塀の屋根には瓦が葺かれていたことが、発掘調査からわかっています。
政庁第2期
 この時期の区画施設は、崩壊した第1期の北半分の築地塀を築き直し、その屋根も板葺きに変えています。また、南半分の築地塀は、布掘りとよばれる溝状の掘り込みの中に、材木を隙間なく立て並べた材木列塀に変えています。この築地塀崩壊の一因には、降雪や凍結など秋田の厳しい冬の気象条件が関係していたものと考えられます。建物については、ほぼ同位置で建替えられた正殿や、東脇殿、目隠し塀を伴う北東建物のほか、新たに北西建物が建てられました。
政庁第3期
 政庁域全体を再度整地するなど、全面的な改修を行った時期にあたります。区画施設についても、北側の築地塀をやめ、南側の材木列塀とともに、等間隔に柱を立て並べ、その間を横材でふさぐ、一本柱列塀に変えています(文は現地説明板より)。


【城内東西大路】
 左方向が外郭東門、右方向が政庁。

 この道路は、政庁から外郭東門に至り、外郭外側までほぼ真っすぐに延びていました。ここが道路だと分かったのは、固く締まった道路面や、東西方向の素掘りの溝である側溝などが発掘調査で検出されたからです。
 その発掘調査から、6時期の変遷があったと考えられる道路幅は、奈良時代には12m、平安時代には9mありました。今回復元対象とした道路は奈良時代のものです。また奈良時代の道路周辺からは、外郭東門周辺部と同様に周囲に遺構が認められないことから、周辺の利用に関しては建物を建てることができないなどの制約があったと考えられます。
 なお平安時代以降については、政庁にほど近い道路北側が、恒常的に鍛冶等の生産施設として利用されていたことが、発掘調査から分かっています(文は現地説明板より)。


 政庁を囲む築地塀の門から見た城内東大路。この先に外郭東門が位置する。


 城内東大路の途中から見た政庁の築地塀と門。

 城内東大路と外郭東門。道路面は雨水でぬかるんだりしないよう、敷ならした土を何層にもつき固めて作られていた。

 東大路が外郭東門からさらに西に延びる。東門を抜けたところの右側には古代沼が復元されている。

【外郭東門】

政庁側から見た外郭の東の門。道路は城外東大路。東大路は
秋田城の外から東門を通り、政庁に向かう重要な道路であった。

続く


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