続編 秋田城跡
【外郭東門】
外郭東門(鵜ノ木地区側)~平成元年度の発掘調査で発見された奈良時代の外郭東門を復元したものです。秋田城の東門の特徴は、軒先につく軒瓦がないこと、部材をつなぐところに舟肘木(ふなひじき)を使用していることです。木材の仕上げは槍の穂先のような鉇(やりがんな)という古代と同じ工具で削り、また、表面は丹土(につち)を塗っています。
外郭築地~門の横に続いている土壁は築地(ついじ)とよばれています。土を人の手でつき固めながら積み上げる版築という古代と同じ工法で造られています。復元した築地の端は途中で切れていますが、実際はずっと続いていて秋田城の回りを囲んでいました。


政庁側から見た立体復元された外郭東門と築地塀

軒先の様子と部材をつなぐところの舟肘木


外郭築地塀
 秋田城の囲まれていた範囲は、東西、南北とも約550メートルで北西部の角がとれたような形をしています。秋田城が造られた当初は、土を積み上げ瓦葺きの屋根のある「築地塀」で囲まれていました。しかし、「築地塀」もやがて、木材を立てならべた塀に変わったことが発掘調査によりわかっています。


外郭東門から西に延びる大路

【秋田城跡鵜ノ木地区】
 鵜ノ木(うのき)地区は、秋田城跡を巡る東辺外郭築地塀の外側にあたり、発掘調査の結果、掘立式の建物跡や井戸、沼跡などたくさんの遺構が発見されました。

 建物跡は東西、南北に整然と並び、その一画には杉の木の井筒がおさめられたりっぱな井戸が作られています。井戸の底からは、高清水の地に出羽柵が遷された翌年にあたる「天平六年月」(734)の木簡や「(天平)勝宝五年調米」(753)と書かれた納税を示す木簡、また沼を埋めた整地土からは「・・・王寺」と書かれた土器も発見されています。

 鵜ノ木地区は、これらの遺構や遺物などから奈良時代には重要な役所跡、また平安時代のある時期には寺としても使われたことがうかがわれます。

(概略図と文は、概略図の現在地に立つ説明板より。概略図は一部追記し掲載)

鵜ノ木地区の井戸跡(天平の井戸跡)、古代沼、後方の外郭東門をのぞむ


古代沼(復元)
 沼は、縄文時代以前に飛び砂によって沢がせき止められてできた自然の沼を復元したものです。沼は、城内でおこなわれた大祓(おおはらい)などのまつりで使われた人形、斎串(いぐし)、矢羽根(やばね)、人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)などを流す神聖な場として利用されています。


人面墨書土器(秋田城跡歴史資料館展示品)
 古代沼で出土。人面墨書土器は息を吹き込みフタをして、その人についた禍(わざわい)や穢(けが)れを封じ込め、水に流して祓(はら)うために使われた。




(左)矢羽根形
(上)人形
(ひとがた)
(秋田城跡歴史資料館展示品)

天平の井戸跡(復元)
 この井戸は、加工した厚い杉材を円形に組合わせて造られています。中から「天平六年月」と書かれた木簡が発見されており、出羽柵が高清水の岡に遷された奈良時代の天平五年(733)頃に造られたものと考えられます。


井筒も復元された井戸跡


加工した杉材を円形に組合わせて造られた井筒
 井戸の底には杉の厚い板6枚が円形に組まれた「井筒」が埋め込まれていました。
(秋田城跡歴史資料館展示品)

 井筒の底には(せん)(れんが)が敷き詰められており、そこから、「天平六年□月」と文字の刻まれた天平時代の木簡(木の札)が見つかりました。天平6年(734年)は、「続日本紀」という歴史書に秋田村高清水岡に出羽柵を移したと記された天平5年(733年)の翌年にあたります。
 「天平の木簡」により発掘された秋田城跡が建物群や立派な井戸を持っ天平時代にさかのぼる遺跡であり、天平5年に秋田に移された出羽柵であることがわかりました。
 発掘調査により歴史書の記録が裏付けられ、歴史書の中の秋田城と史跡秋田城跡がはっきりとつながったのです。


井戸跡出土木簡(秋田城跡歴史資料館展示品)

 

掘立式建物跡(復元)
 
平面表示により、古代の建物配置を復元。


建物跡(復元)

柱列(復元)


竪穴式住居跡(復元)
 秋田城跡では、奈良・平安時代の竪穴式住居跡が300軒以上発見されていますが、これはもっとも古い竪穴式住居跡の1棟です。ここでは地表から下の部分を、焼失住居跡等をてがかりに復元し表示しています。


復元水洗厠舎
 奈良時代の最新鋭の水洗トイレ。


復元水洗厠舎
 城外南東の鵜ノ木地区にあった寺院兼客館(迎賓館)に付属する奈良時代後半の水洗トイレです。建物の中に3基の便槽が並び、埋め込まれた木樋が沼地に延び、木樋の先端部には沈殿槽が掘り込まれています。建物と水洗施設が機能的に整備された全国に例のない優れたトイレ遺構です。


復元水洗厠舎模型(秋田城跡歴史資料館展示品)

◆兵士の姿(秋田城跡歴史資料館展示品より)
 秋田城には、軍隊が置かれ、兵士がいました。兵士が使った武器、身につけた武具が出土しています。秋田城跡では、特徴的な武具として9世紀前半の非鉄製の小札甲が出土しています。
 『続日本紀』延暦9年閏3月4日条には、桓武天皇が蝦夷征討のために諸国に革製の甲冑二千領を作らせるよう命じた勅の記載があります。出土した甲の年代から、小札甲が蝦夷征討のための最新鋭の革製甲となる可能性が考えられ、秋田城が最前線の軍事拠点であっことを物語っています。
 平安時代前期の非鉄製小札甲の出土は全国的にも例がなく、日本古代の甲の歴史を知るうえで極めて重要な資料です。


「非鉄製小札甲」の実物展示
 非鉄製の素材で作られた甲、一領分が鍛冶工房の床面から出土し、そのまま切り取って展示。
小札甲(こざねよろい)出土状況
 平安時代の甲(よろい)が廃棄された状況で発見されたものです。漆が塗られた札(さね)と呼ばれる小さい板を何枚も重ねて甲をつくっていました。材質は革と考えられていますが、外側の漆のみが残っている状況です。
 小札の一枚一枚が横方向に重ねられ、連結されたものが、折り重なるように出土しました。縦方向に重ねるための連結は、ばらけてしまっています。
 小札は、740枚以上確認され、1領(体)分以上あると考えられます。秋田県指定有形文化財。


非鉄製小札甲とは、革などで作った小さな板を漆で固め、それを連結して甲にしたものです。当時の甲には鉄製や革製などがあり、それまでの鉄製とは違う、当時最先端の革製の甲と考えられ、他に出土例のない貴重なものです。




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甲の復元模型
復元された小札甲と冑(かぶと)
 挂甲(けいこう)タイプの甲(よろい)とセットとなる冑(かぶと)です。甲は秋田城跡から出土した9世紀前半の小札甲をもとに復元しました。
 冑は徳丹城跡(岩手県矢巾町)から出土した木製冑を元に復元したものです。