福山城
<広島県福山市丸之内>

JR福山駅新幹線ホームから望む福山城本丸の櫓群

■国史跡福山城跡/概略
    <昭和39年(1964)2月7日史跡指定> 
 この城は、元和5年(1619)福島正則の改易により備後10万石の領主として入封した水野勝成(みずのかつなり)が、3年の歳月を費やし構築した近世の城郭である。低い丘陵を利用した平山城で、東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。
 現在内外の堀は埋められ、三之丸と共に市街化しているが、二之丸・本丸は築城当時の姿をよく伝えている。城地には、そそりたつ石垣をはじめ重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門(すじがねごもん)、市重要文化財の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。
 なお、天守閣・月見櫓・湯殿は昭和41年(1966)に、鏡櫓は昭和49年(1974)に、それぞれ外観復原したものである。

■城号
 敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城

■城主
 水野氏5代・松平氏1代・阿部氏10代
(以上現地説明板より)

■福山城周辺図
       
       JR福山駅北口より徒歩5分。
       ※福山城博物館(天守閣)

■福山城縄張(17世紀後半の姿)
 <福山城古絵図、古写真等を参考に推定復元。現地説明板より>

 福山城は、江戸幕府初代将軍の徳川家康の従兄弟にあたり「鬼日向」の異名を持つ猛将で知られた水野勝成により築城され、1622年(元和8年)に完成しました。西日本で最初に配置された譜代大名の水野勝成は石高10万石の大名でしたが、城の規模は30万石に匹敵するおよそ78,000坪(257,400u)を誇り、「西国鎮衛」としての重要な任務を負った城郭といえます。
 福山城の特徴の一つに、櫓の多いことがあります。20数基に及ぶ三重櫓・二重櫓、城郭で最も厳重な防備施設といえる多聞櫓(城郭の石垣上につくる長屋状の櫓、多門櫓とも記す)が本丸と二之丸の東南部を除くほぼ四周を囲み、その総延長は291間余(570m)にも及びました。総延長300間近くになる多聞櫓は全国の城郭でもまれな規模であり、10万石の大名の居城としては破格の巨城であったといわれています。
 1873年(明治6年)に廃城し、ほとんどの櫓が取り壊され、さらに1945年(昭和20年)の戦災により天守閣や御湯殿などを焼失しました。(現地説明板より)

■現況(訪問日:2020年6月再訪問)
 <天守閣(博物館)展示の福山城模型に一部追記>

現在では、本丸と二之丸(一部)が残り、堀は埋められ三之丸と共に市街化されている。赤枠部分にはJR福山駅が建つ。

<築城時の姿を今に伝える「伏見櫓」「筋鉄御門」「鐘櫓」>

左より、伏見櫓(国重要文化財)・鐘櫓(市重要文化財)・筋鉄御門(国重要文化財)


【伏見櫓】

二の丸跡から見た伏見櫓(南西面)
伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城の松の丸東櫓を移築して
建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井としている。


南西側から見る伏見櫓と筋鉄御門
 石垣は本丸を囲む石垣。石垣下は二之丸となる。


筋鉄御門前から見た伏見櫓北東面
 城郭建築史上、初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。


筋鉄御門(すじがねごもん)

筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付櫓門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。


筋鉄御門正面

下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、堅固な造りとなっている。


筋鉄御門内側の扉部分
 右側には脇戸の扉が見えている。



筋鉄御門城内側
 手前の芝生一帯は伏見御殿跡
鐘櫓】
築城当時より城下や近隣諸村に“時の鐘”をつげた遺構で江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。当初は柿ぶきか
桧皮ぶきであったが明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため原型をとどめない状況であった。昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。

二之丸から見た鐘櫓
 福山市重要文化財(昭和54年10月26日指定)


本丸から見た鐘櫓
 城地内に鐘櫓が所在するのは、全国的に例がなく貴重な文化財である。

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