<本丸周辺の曲輪配置図(現地案内板より)>![]() 大永3年(1523)猿掛城主の元就が、宗家の郡山城を相続。元就27歳。以来、 郡山南東の旧本城を郡山全山に拡大し、「郡山48櫓」と噂のある大城郭を築く。 元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し遂げた。 |
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![]() 登山道に設置されている標識 |
![]() 本丸まで530mと書かれた石標 |
![]() 本丸まであと350m |
![]() 御蔵屋敷跡 御蔵屋敷は兵糧蔵跡です。ここから本丸までは100m。 |
《釣井の壇跡》![]() この壇に直径2.5mの石垣井戸があり、本丸に最も近い水源です。 今は埋もれて深さ約4mとなり、水は沸いていません。木材で四角に囲まれているところが井戸跡。 |
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《破壊された石垣跡》![]() |
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《勢溜(せだまり)の壇跡》![]() 御蔵屋敷跡の下段を、堀切で区画して独立させた大小10段からなる大型曲輪 |
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《厩(うまや)の壇跡》![]() 三の丸東から東南方にのびる約400mの尾根の基部で、壇の下に馬場がある。 |
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《三の丸跡》![]() 城内最大の曲輪。 |
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《三の丸跡の破壊された石垣》 ![]() 石垣は撤去されたが崩れた石垣が残る。 |
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《二の丸跡》 ![]() 二の丸は本丸の南につながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。 |
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《本丸跡》![]() 郡山の山頂に位置し、一辺が約35mの曲輪で、北端に一段高くなった櫓台がある。 |
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《本丸櫓台跡》![]() |
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《尾崎丸跡》![]() 旧本城との間を堀切でへだてた独立的な曲輪群にあり、隆元の居所であったと考えられる。 |
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《旧本城跡》![]() (安芸高田市歴史民俗博物館展示の郡山城模型) |
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![]() 旧本城への道 |
![]() 右斜めの道を登った先が旧本城の山頂。 |
![]() 旧本城跡(本丸頂部) |
旧本城跡 郡山の南東麓にあり、建武3年(1336年)毛利時親が吉田荘地頭として城を築いて以来元就が郡山全山を城郭とするまで、11代約190年間毛利氏が本城とした城である。 旧本城は、背後を3本の堀切で区画し、半島状の尾根を独立させたもので、長さ約400mの尾根の上部長さ約200m、面積約4000uを直線的な階段状に利用した、鎌倉時代の山城の形態がよくわかる城跡である。 頂部本丸は、標高293m、比高約90mで、一辺約37mの平地の背後には櫓台跡があり、南に2段の付曲輪がある。 二の丸は、本丸の東下方約9mにあり、南北70m東西13mの大きな曲輪で、北寄りに井戸がある。その東に三の丸とよばれる2段の平壇がある(現地説明板より)。 |
![]() 本丸頂部より下方を見る |
![]() 旧本城跡からの安芸高田市街 |
| 《郡山公園》 郡山公園は、毛利氏時代の興禅寺跡で、毛利元就が永禄10年(1567)京都から、能役者観世太夫宗節ら一座20人を招き、この寺で能狂言が催されたことが記録にあります。当時、興禅寺村の名が残っており、寺領を与えていたので、毛利氏の尊崇が厚かったことがわかります。公園は大正4年(1915)の築造で、浅野長厚3万石の居館に付設された「文久亭」を拡大修復したのが郡山公園です(現地説明板等から引用)。 |
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![]() 郡山公園 |
![]() 郡山公園と後方の山は旧本城跡 |
![]() 郡山公園からの郡山城跡への登山口 |
![]() 清(すが)神社 古代の創建といわれ、毛利氏の祈願所ともなった。 |
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