【所在地】広島県安芸高田市吉田町
【アクセス】「広島バスセンター」から広島電鉄バス“吉田出長所行き”で約1時間30分、「安芸吉田市役所前」バス亭下車
【史跡区分】国指定史跡
【歴史概要】
 郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336)に、毛利時親(ときちか)が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就(1497〜1571)が郡山全山を城郭化し、さらに輝元(元就の孫)が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。

 郡山城は、北流する可愛川(江の川は上流地域では可愛川[えのがわ]と呼ばれる)と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1q四方に広がる。

 遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜(せだまり)の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。

画像は毛利元就。
 元就は、安芸国の国人に過ぎなかった毛利氏を、わずか一代で山陰・山陽10か国と豊前国(大分県)・伊予国(愛媛県)の一部にわたる覇権を確立した。


郡山城前方の「青光井山」尼子陣所跡
左が青山、右が光井山、総称して青光井山(あおみついやま)と呼ぶ。








 標高は青山が370m、光井山が367mあり、山上には曲輪が多く残り、青光井山尼子陣所跡として町史跡に指定。

 天文9年(1540)9月、出雲・富田の尼子晴久が率いた3万の大軍は、天文10年(1541)1月頃までの5ヶ月あまりにわたり、毛利元就と対峙し、郡山合戦を繰り広げた場所。毛利軍は小勢ながらよく戦い、尼子軍を敗退させた。

 この郡山合戦により、郡山城は天下の堅城として知られるとともに、元就は戦国大名として飛躍のきっかけをつかみ、この城を本城として、中四国、北九州まで勢力をのばした。

毛利輝元画像




 天正19年(1591)、郡山城は、輝元(1553〜1625)の広島城移転後は廃城となり、関ヶ原合戦以降取り壊された。徹底を極めた破壊にあいながら、建物跡、崩れた石垣、土塁、井戸など古城のいわれを誇る遺構が無数に横たわる。

     
     広島城天守


郡山城跡ガイドマップ
(現地リーフレットより転載)


所要時間の目安(現地説明板より)

<郡山城麓周辺から毛利元就墓所へ>

吉田町歴史民族資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)
 博物館では毛利氏の歴史や郡山城の説明などを展示・紹介。郡山城跡へは、博物館右側の整備された道を登って行きます。
 博物館から墓所参道入口に行くまでに、吉田少年自然の家(平成29年3月末にて施設廃止)、「元就の火葬場跡」などがあります。



[郡山城阯]石碑
 「旧・吉田少年自然の家」入口向側に立つ。
吉田少年自然の家は廃止になっているので「旧」をあえて
付けました。

旧・吉田少年自然の家
 歴史民俗博物館からすぐの所にあります。
写真は訪問時のものです(その後、施設は廃止になりました)。
ここは、元就晩年の御里屋敷跡といわれている。



毛利元就公像
 「旧・吉田少年自然の家」前に置かれている。


「三矢の訓跡」碑
 「みつやのおしえ」と読み、「旧・吉田少年自然の家」敷地内にある。元就が死に臨んで語った「一本の矢はたやすく折れるが、束ねた矢は折れない」という有名な伝説。元就は隆元・元春・隆景に難局を乗り切るには3人の協力が必要という「教訓状」をしたためている。
 三子に与えた共同一致の教訓状から、旧大江中学校生徒会が御里屋敷跡に建立したものです。



毛利元就の火葬場跡
 元就は、元亀2年(1571)6月75歳で病没。

毛利元就公墓所参道入口
 鳥居をくぐり、5分くらいで墓所に着きます。



墓所参道

毛利元就の墓
 城の搦手に位置し、階段を登った所に元就と一族の墓があり、元就の墓は一族の墓より一段高くなっている。



石垣上が元就の墓
 中国地方を平定した戦国の勇将毛利元就は、郡山城で生まれ郡山城で75歳の生涯を閉じるまで戦乱の日々をこの安芸の国吉田郡山城を本拠に過ごした。

毛利一族墓所
 元就墓所の下段に位置する。この毛利一族の墓は、郡山城内、
城下にあったそれぞれの墓を明治二年(一八六九)にこの洞春寺
跡の元就墓所境内に移葬されたものである。


毛利元就の逸話 「百万一心碑」
 元就墓所内にあり、郡山築城の際に元就が、人柱に代えて一日一力一心の大石を鎮めとしたという模彫の碑が、吉田町郷土史調査会で建てられています。日を一にして、力を一にし、心を一にするという協同一致の精神を示したものです。
 

墓所の脇にある毛利元就墓所から本丸へ登る登城口。次は本丸を目指します(本丸まで約20分)


          郡山城跡と旧本城跡をご覧下さい

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