伊賀上野城大天守(右)と小天守 ![]() 伊賀上野城(雅名・「白鳳城」) 三つの天守閣 |
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| 筒井氏天守 天正13年(1585)、筒井定次が現天守の東方、一段高い石垣の位置に三層の天守を築いた。 藤堂氏天守 慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予国今治から伊賀、伊勢に国替えとなり、筒井氏の城郭を西側に拡張して天守台や高石垣を築いた。慶長17年(1612)9月2日、竣工間近の五層の天守は暴風雨のため倒壊。その後、大坂夏の陣で徳川方勝利の後は再建されず、筒井古城に城代屋敷を置き幕末まで伊賀一国を治めた。 現在の天守 昭和10年(1935)地元出身の代議士・川崎克氏が藤堂氏の天守台に木造で復興した。大天守の一階には武具甲冑や伊賀焼など、二階に藤堂家ゆかりの調度や史料、川崎氏の作品などを展示。三階の格天井には横山大観はじめ各界著名人の大色紙46枚の書画が豪華な絵巻を成している(城内説明板より)。 |
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| 《訪問日》 2022年7月再訪問 | |
| 《所在地》 三重県伊賀市上野丸の内 | |
![]() (地図は現地説明板より) |
▼上野市駅(忍者市駅)から見た伊賀上野城天守![]() ▼天守から望む伊賀市上野市街地。 右下の赤い屋根とクリーム色の建物は上野市駅(忍者市駅)。 かつては、この辺りも城内であった。 ![]() |
| 《地形種類》 上野盆地のほぼ中央部に位置する標高160〜180mの丘陵に築かれた平山城 | |
| 《文化財区分》 国指定史跡。伊賀文化産業城(復興天守)、藤堂藩旧武庫は市指定文化財建造物 ▼写真は藤堂藩旧武庫(上野高校敷地内) ![]() 《遺構・現状》 高石垣・堀・本丸・旧武庫。上野公園として整備。 ▼写真は城代屋敷跡から望む本丸に建つ大・小天守 ![]() |
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| 《見どころ》 本丸西面の高石垣と内堀 | |
![]() 高石垣上部からの眺め |
![]() 高石垣上部からの眺め この写真と、下の写真は以前訪問した時のものです。石垣右側の建物は上野高校です。 |
![]() 「堀の道」から見た高石垣 |
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《藤堂高虎と上野城天守》 藩祖、藤堂高虎は、慶長13年(1608)8月、伊予国から伊賀国10万石、伊勢国の内10万石、伊予国の内、2万石に移封となった(のち32万3.954石余となる)。高虎は徳川家康の信任が厚く築城の名手でもあった。前城主、筒井定次が築いた上野城の本丸を慶長16年(1611)に豊臣方に備えて西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらした。 5層の天守閣は建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風雨のため倒壊した。しかし、慶長19年(1614)の大阪冬の陣と翌年の夏の陣で徳川方が勝利し、幕府は諸大名の城普請を禁じたためこの城では天守閣が再建されないまま城代家老が置かれて伊賀国の城として幕末まで存続した。 現在の天守閣は、当地出身の政治家、川崎克氏が文化産業振興の城として復興を志し、熊野の山林家、奥川吉三郎氏らの協力を得て私財を投じて資金を調達し、昭和10年(1935)10月18日に落成した。「伊賀文化産業城」と名付けられ、その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれ親しまれている(説明板より)。 (写真は大天守1階に置かれている藤堂高虎像) |
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伊賀上野城 《高石垣・天守・城代屋敷をめぐる》 ![]() (案内図は現地説明板に文字を一部追記) |
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| 高石垣 | |
![]() (左)白鳳門(模擬)から伊賀上野城を訪問します。(中)白鳳門から本丸へと続く登城道。左上方に天守が見えます。(右)登城道の途中にある本丸表門跡辺り。 |
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![]() (左)本丸表門跡周辺の石垣。(中)本丸表門跡からさらに進むと突き当たりとなり、左右に道が分かれます。どちらへ進んでも本丸・天守へ行けます。(右)高石垣を見るので左へ曲がります。 |
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| 『高石垣上からの眺め』 藤堂高虎は、本丸西側に大坂城から豊臣軍が出撃することを想定し、家康の命で最大規模の石垣を築き上げた。 |
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![]() 南から見た高石垣と内堀。「打込はぎ」の石垣は29.5mの高さを誇る。 |
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『堀の道からの眺め』![]() 北から見た高石垣。訪問した時点では、全体が望める数少ない場所の一つです。 |
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![]() 高石垣上部 「堀の道」も樹木が生い茂り、石垣全体を見る場所は限られており、石垣上部しか見ることはできません。 |
![]() 南辺の高石垣 石垣に雑草などが茂っているため、このような状態になっています。石垣上には天守が微かに見えます。次は天守を訪問します。 |
| 伊賀上野城天守 | |
![]() 高石垣側(南西側)から見た大天守と小天守 昭和期最後の木造で再建された復興天守で、名称は「伊賀文化産業城」。 伊賀上野城の続きをご覧下さい 地域別訪問城に戻る |
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