続・伊賀上野城

三重三階の天守(右側)と二重二階の小天守


天守への入口
 左側は小天守。


大天守1階


大天守3階の格天井
 天井には天守復興を祝い、日本画家や各界から寄せられた1m角の色紙が貼り付けられている。


城代屋敷跡(筒井古城跡)から見た天守

 城代屋敷について~天正13年(1585)伊賀の国主となった筒井定次が文禄のころ、三層の天守をもつ平山城を築いた。筒井氏国替えのあと、慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が入国して、筒井氏が築いた本丸を西方に拡張し雄大な本丸を築き、さらに外堀を画して典型的な近世城下町を建設した。これにより藤堂高虎は、筒井氏本丸を城代屋敷として築いた。



大天守から望む城代屋敷跡
 この場所は、城代屋敷跡の裏門になります。

城代屋敷跡

御城内絵図(城代屋敷跡))
<藤堂藩による伊賀国の治世では、筒井時代の本丸跡に政務を執り行う城代屋敷が設けられた>


屋敷南側に公的な建物(表向建物)、北側に私的な建物(奥向建物)が造られていた。
(御城内絵図は現地説明板に一部追記し掲載) 
史跡上野城跡城代屋敷の建物
 藩主等も使用する殿舎は、一般に広間や書院などをもつ政務の場である「表向き建物」と、居間や寝室など生活の場である「奥向き建物(自分建物)」とから構成されました。上野城の城代屋敷も、数点の絵図が残されていて、よく似た建物構成であったことがわかります。今回の整備では、幕末頃を描いた「御城内絵図」と発掘調査の成果を照合し、建物の広がりを縁石やベンチ、植栽などで表現しました。
城代屋敷建物の構成
【表向き建物】東側は広間や書院、西側に小部屋群が位置します。
 ①式台 ②玄関 ③使者之間 ④小玄関 ⑤鑓(やり)之間 ⑥広間 ⑦通(とおり)之間 ⑧広間 ⑨銅壷(どうこ)之間 ⑩次書院
【台所棟】下台所、料理人部屋などがあります。
【奥向き建物】自分建物は朱文字で書かれます。城代及びその家族の居所となっています。
【蔵群】白塗は土蔵を示します。
 ⑪塩噌蔵 ⑫米蔵 ⑬柴小屋 ⑭水溜
【⑮裏門】台所門とも呼ばれました。
【⑯表門】
【長屋群】表門棟・東西棟・南北棟からなります。
(文は説明板より)


御城内絵図から見た石垣
 石垣上には、⑪塩噌蔵、⑫米蔵、⑬柴小屋が建っていた。この石垣は、裏門西側の石垣解体修理工事に伴って実施した平成20年度発掘調査では、藤堂時代(1608~1871年)の石垣の内側から藤堂以前と考えられる石垣が現れた。

 伊賀市教育委員会では、保存整備事業を進めるための基礎資料を得るため発掘調査を実施。これらの発掘調査により、「御城内絵図」に描かれた建物と、実際の遺構との対比が可能となり、多くの遺構が検出された。



裏門跡
 絵図には裏門と書かれていますが、台所棟に近いこともあり、「台所門」と呼ばれていた。付近の建物も、米や塩、味噌といった食材や柴、炭といった燃料の倉庫となっています。


御城内絵図の石垣
 裏門側から見た石垣で、この奥に表門跡があります。


柴小屋・米蔵・塩噌蔵が建っていた石垣ごしに天守を望む
 丸い平らなところは、絵図にも描かれている⑭水溜跡です。ふたの付いた直径1.5m程の木桶が入っていたと思われる。

裏門跡の礎石
 奥の芝生で囲まれた所は、大納戸蔵跡。土蔵造りの建物であった。


城代役所跡


庭の飛び石・石列・石敷遺構
 この部分は『御城内絵図』によれば「庭」と書かれた場所で、【表向き建物】の中ほどにあたり、北は時計之間、東は通之間・銅壷之間、南は廊下、西は次部屋の廊下等に囲まれています。絵図には庭としか表示がなくどのような様子であったか不明でしたが、平成5年度発掘調査で飛び石や石列・石敷きが検出されました。整備ではこれらの庭の遺構を復元しています。



御城内絵図③使者之間
 平面復元した③使者之間の遺構。

【⑯表門跡】
 正面の石垣は、御城内絵図部分の石垣。

表門跡
 城外へは左折れの石段を下る。


表門跡
 下から見る表門跡。奥の石垣は御城内絵図部分。


筒井古城本丸跡の石垣
 石垣下の道を奥へ進むと裏門となる。


上野公園と周辺

(現地説明板より)

  
(左)東大手門跡。西大手門とともに櫓門であった (中)西大手門跡 (右)俳聖殿{国重要文化財・上野公園内}


    
(左)忍者屋敷{上野公園内} (中)旧崇広堂表門{赤門}。国史跡。 (右)旧崇広堂内部。崇広堂は津藩藩校有造館の支校として、文政4年{1821}に上野城内に開設された藩校。地震によって講堂などを除く大半は倒壊したが、ほどなく復興された。


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