続・九戸城跡

【二ノ丸大手】
 二ノ丸には、出入口である虎口が3箇所に開かれており、正面とされるのが二ノ丸大手です。大手は城郭において政治的、軍事的にも重要な道筋で、堀を挟んだ武家屋敷(在府小路遺跡)と土橋で繋がっていました。
 二ノ丸大手は、福岡城の普請時に改修したと推定されます。現存するいくつかの古絵図には、方形の空間をもった枡形の虎口が描かれています。平成30年度の調査によって、東西48メートル、南北5メートル以上の枡形虎口であることが判明しました。 
 虎口は、地表を浅く掘り込んで構築され、南から入ると土塁によって西へと進路を誘導されます。虎口内を40メートル程度進むと北に折れ曲がり、本丸南東隅櫓付近で二ノ丸に入る構造になっていました(文と城絵図は現地説明板より)。


武家屋敷側から見た二ノ丸大手付近
 城碑後方のブルーシート周辺が大手。



九戸城跡入口
 カラーコーンの置かれている所が入口。左に折れて、緩い登坂を進むと二ノ丸大手跡となり、その先が二ノ丸跡です。


城内側から見た二ノ丸大手周辺
 二ノ丸大手虎口は、長さ47メートル、幅7メートルあり一の門と二の門を備えたものであったことが判明しています。



二ノ丸大手辺りから見た二ノ丸跡と本丸跡(樹木一帯)
 二ノ丸跡は、三ノ丸を除くと城内最大の曲輪であり、本丸をL字型に囲む形をなしています。本丸、松ノ丸とともに直線的な造りであり、本丸との間の空堀には石垣が築かれ、虎口は、信長や秀吉による全国統一が進行していた戦国時代末期(16世紀後半)の築城様式である枡形とするなど九戸城の中でも近世的要素の強く見られる部分です(説明板より)。


【二ノ丸搦手】
 搦手は正面である大手に対し、裏口を意味します。二ノ丸の出入口である虎口の一つです。二ノ丸搦手は二ノ丸大手と同じく、南部信直の居城であった福岡城の普請時に改修したと推定されます。現状では細い通路になっていますが、古絵図の中には、二ノ丸大手と同じく方形の空間をもった枡形の虎口が描かれているものがあります。
 二ノ丸搦手から堀底道を通り、若狭館、石沢館、三ノ丸の各曲輪へ行くことができます(文と城絵図は現地説明板より)。






整備工事中の二ノ丸搦手
 平成29年度の調査によって、搦手の虎口は13メートル×3メートル以上の規模で、枡形を呈していることが判明しました。二ノ丸大手の虎口と同様に、地表を浅く方形に掘り込んで構築されており、土塁壁際には、土留めの痕跡が確認されました(説明板より)。
 後方が石沢館(外館)となります。

二ノ丸から見た石沢館(外館)
 石沢館と二ノ丸の間には堀が築かれており、石沢館は整備工事中でした。



二ノ丸跡から見た本丸
 高い樹木の生えている所が本丸跡。

 次は本丸を巡りますが、本丸内へは立入禁止となっており、二ノ丸から本丸外周を見学しました。
【本 丸】

本丸に残されている堀、石垣、隅櫓跡、追手門虎口や南虎口などの遺構は、福岡城期に築かれたものです。
(現地説明板に一部追記)


本丸と二ノ丸(手前)を繋ぐ橋が架かる本丸追手門跡
 追手虎口は10メートル四方の枡形虎口で、櫓門の礎石や正面の堀底からは、木橋に伴う柱穴痕が検出されています(現地リーフレットより)。

本丸追手門跡の右側の堀
 本丸内に建物が見えますが、本丸内には立入禁止なので何の建物かは不明です。本丸内では7棟の建物跡が確認されているそうです。



本丸追手門跡の左側の堀
 左奥の角が本丸南東隅櫓跡になります。


本丸南東の隅櫓跡
 土塁上には櫓台跡が残る。敵情視察や射撃のために設けられた施設。右奥は追手門跡に掛かる橋。


本丸南側の堀
 右側の本丸南東隅櫓から、後方に位置する本丸南虎口に至る堀です。本丸虎口寄りには石垣が見られます。



本丸虎口寄りの石垣
 画像上部は、本丸南虎口です。

【本丸南虎口】

(現地説明板より)


標柱には本丸虎口跡と書かれています

本丸南虎口
 本丸の出入口である虎口の一つで名称は不明です。土橋で本丸と二ノ丸を繋ぎ、櫓を配し、櫓門を構えていることから、城郭の中でも重要な虎口であったと推定されます。1辺が約15メートル四方の枡形を呈し、本丸の出入口には櫓門の礎石が残っています。また、二ノ丸に接する南側には門などの施設はありませんが、本丸南側の堀跡は、侵入者を阻むために土橋状の喰違いになっています。
 平成2年の発掘調査では、下層から古い堀跡が確認されています。また、平成5年に実施された地中電気探査では、この堀跡の延長部分が確認され、現在の虎口と同じように途切れて土橋状になっていることが明らかになっています。このことから九戸氏の時代にも同じ位置に虎口があったと推定されます(現地説明板より)。


【本丸石垣】

(現地説明板より)
本丸石垣
 天正19年(1591)に、蒲生氏郷によって普請されたとされる石垣です。地元では九戸政実が築いた石垣として信じられてきましたが、発掘調査の結果、九戸城落城後に築かれた福岡城の石垣であることが判明しています。北東北では最も古く、構築年代が判明している石垣として学術的に重要な遺構です。自然石を積み上げた野面積と呼ばれる手法で構築されています。
 残っている石垣は隅石が失われ、V字に崩れていることから寛永13年(1636)の廃城時に破却された可能性があります。また、南堀跡は、南面の石垣と北面の石垣の積み方が異なります。北面石垣は、横目地が通らないことから、在地系の職人によって築かれた可能性が指摘されています(現地説明板より)。

本丸と二ノ丸を隔てる本丸南側堀跡 
左側(本丸側)の石垣と右側(二ノ丸側)の石垣の積み方が異なるようですが、整備工事のため立入禁止区域があり未確認です。後方は本丸南虎口。



本丸南側の石垣
右奥が本丸南虎口跡になります。

 

大きく崩れている本丸南側の石垣


 
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