国指定史跡

 向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)


東北最大級の山城跡 / 続日本百名城選定

竪堀(一曲輪)

【所在地】
福島県大沼郡会津美里町字船場地内ほか
  

【向羽黒山城跡入口】
  
手前には、向羽黒山城跡整備資料室(向羽黒ギャラリー)が建っています。ここから主郭(岩崎山)までは、観音山、羽黒山を超えて行きます。

訪問(2022年5月16日)に際しては、公共交通機関を使用せず、西若松駅からタクシー利用し、城跡見学後も迎えに来てもらいました(片道約3千円前後)。
なお、西若松駅にはタクシーが常駐しており、会津本郷駅(JR)、南若松駅(会津鉄道)には常駐していません。
【城跡の立地】
 向羽黒山城跡は、町の東側を北流する阿賀川に沿って細長く平坦部に突き出している白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)の岩崎山全域と羽黒山の一部に位置しています。
【向羽黒山城跡想像図】
【城の変遷】
 各種の史料によると、蘆名盛氏が家督を子の盛興に譲り隠居して、永禄4年(1561年)、向羽黒山城を隠居城として築城し、同11年に完成したが、その後、天正2年(1574年)に盛興が亡くなったため盛氏は黒川城(当時、蘆名氏が政治の中心としていた城、現在の若松城のある場所)に戻り、向羽黒山城は廃城になったとされています。
 しかしその後、伊達政宗が向羽黒山城に出かけていることを示す史料もあり、その頃の社会情勢からも蒲生氏郷、上杉景勝の時代も継続して機能していたと考えられています。

【城郭史における意義】
 これまでの研究から、城郭史上における向羽黒山城跡の意義を簡単に説明しますと、戦国時代も末期になるにつれ、城の作り方も山の城から平地の城へと変わってくるのですが、向羽黒山城は逆に山城として発展してきました。
 また、向羽黒山城跡は、規模・質ともに東北を代表する山城であり、保存状態が極めて良いことから発掘調査の実施などにより、東北地方の山城の特質や築城技術の変遷を解明するための有力な情報を有している史跡といっても過言ではありません。 (以上、想像図、文は現地説明板および現地資料より)

一曲輪~二曲輪~三曲輪をめぐる
(案内図は現地パンフレットに追記し転載)

訪問時、タクシーを利用して、上の案内図の白いマルで囲んだ駐車場まで行きました。最初に一曲輪を見学し
駐車場まで戻り、二曲輪さらに、林道を下って三曲輪を見学。帰りは三曲輪でタクシーと待ち合わせて帰りました。

<一曲輪周辺地形図>

(現地説明板に追記)

一曲輪への登り口
 上の周辺地形図の現在地の場所です。登ってすぐの遊歩道の脇には一直線に築かれた竪堀が見られます。


竪堀

礎石建物跡
 遊歩道の左手にあります。


横堀と土塁がめぐる

虎口跡
 一曲輪(実城)に至る枡形虎口です。


上から見た虎口跡

一曲輪(実城)へ至る遊歩道
 ここからさらに登って行きます。前方に土橋?のような通路と堀が築かれています。


土橋(?)と堀跡

堀跡


櫓台状遺構の一曲輪(実城)

一曲輪(実城)
 標高408メートルの山頂にあって、会津を一望でき、戦国大名蘆名氏の本拠地としてふさわしい立地である。
 曲輪の東南は大川畔まで169メートルの絶壁で、他は土塁や空堀で厳重にかためられ、「詰城」として周到な用意がほどこされている。この山城の象徴的な建築物もあったと考えられ、曲輪東北部には櫓台状遺構が現存する。
 東側鞍部上の一の東曲輪には石庭の遺構と考えられるところもあり、この石庭は磐梯山などを借景とする眺望がすばらしい(現地説明板より)。
 西に向かって下ると、西上段曲輪にも堀切(右写真)が築かれています。


堀切
 堀切は、そのまま竪堀となって落ちる。



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