史跡  二本松城跡  平成19年7月26日国指定

二本松城跡登城口
「別名」霞ヶ城。二本松少年隊群像と後方は箕輪門と二重櫓。


山麓部の三ノ丸高石垣
高さ9.9〜13mをはかる石垣。加藤氏時代(寛永4年〜20年)に築造。右は箕輪門。


箕輪門東側の高石垣


{所在地}
 福島県二本松市郭内
{城地種類}
 梯郭式の平山城
 (梯郭式〜隅に本丸をおき、本丸を囲い込むように二ノ丸、二ノ丸を囲い込むように三ノ丸をそれぞれ外側に配置した形)
{現況}
 城跡は公園として整備され、本丸石垣・搦手門石垣・箕輪門・二重櫓などが復元整備、再建。
{アクセス}
 JR二本松駅から徒歩約20分。
 訪問時は、二本松駅構内にある観光案内所にてレンタサイクル(電動)を利用しました。
 途中、坂道もありますが電動自転車でしたので助かりました。
{訪問日}
 2022年5月(2回目)


【二本松城跡について】
 日本松城は、諸説があるが応永21年(1414)頃中世畠山氏の居城として築城され、その後伊達・蒲生・上杉・松下・加藤氏と経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封して城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、以後、二本松藩の居城として明治維新に至った。
 当市教育委員会の発掘調査によって、本丸直下の平場で畠山氏時代の火災廃棄土坑や近世会津支城時代の石垣が見つかった。また中世城館から近世城郭への大規模な改修が寛永4年(1627)〜20年の加藤氏時代に行われたことも判明した。
 当城跡は東北地方を代表する近世城郭であり、中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつその変貌がよくわかり、中世・近世の政治及び築城技術を知るうえで重要である(現地説明板より)。
{二本松城跡指定範囲位置図}

(現地説明板より)


【二本松城大手門跡】
 奥州道中に面するこの地(久保丁口)に築造された堀をともなった大手門で、通称「坂下門」ともいった。天保3年(1832)幕府に絵図面を添えて願い出て、許可を得て建造した本格的な櫓門であった。初代藩主丹羽光重が寛永20年入封した際に大手門建造を望んだが、藩の財政事情により実現はできなかったといわれる。
 
 9代藩主丹羽長富の治世に至り、傑物家老として知られた丹羽貴明の構想によって、代々藩主の悲願であった大手門が完成したが、わずか30数年後の慶応4年(1868)7月29日戊辰戦争の兵火により焼失した。現在、「亀甲積み崩し」技法による石垣を残し、築造年代の明確なものとして重要である(説明板より)。

「亀甲積み」石垣
{二本松城大手門跡指定範囲図}

指定範囲図の上方向が二本松城。現地説明板より。


大手門跡
 大手門跡の立派な石垣は残るが、堀は現在埋められている。この道を進んで行くと二本松城に至ります。



二本松市歴史資料館側から見た大手門跡
 
残されている地割図には、枡形に配された石垣を中心として塀、堀、橋の高さ・長さ・幅などが明記されている(説明板より)。
【二本松御城郭全図】《旧二本松藩主・丹羽家所蔵》
 寛永20年(1643)、10万700石二本松藩初代藩主として入府した丹羽光重は10年余りの歳月を費やし、それまで雑居状態にあった市街地を、東西に走る丘陵・通称「観音丘陵」を境に、内側(上方)を郭内として城内施設や武家屋敷割りなどの整備、外側(下方)には城下町・社寺などを移設する整備を行いました。
 この「二本松御城郭全図」は、江戸時代末期の二本松城および城下町の様相がわかる貴重な絵図で、本城(本丸)や三ノ丸御殿をはじめ、石垣・門・長屋・蔵・馬場など各施設配置や郭内屋敷割り、城下町割り・社寺配置が詳しく描かれています。現在の市街地と比べても町割りや主要道路などには大差がありません(文と城郭全図は説明板より)。

 1=本城(本丸)、=三ノ丸御殿、=箕輪門、は大手門。大手門の位置する左右の丘陵地帯が観音丘陵と呼ばれる一帯です。城郭全図の現在地の所は二本松神社で、明治5年(1872)に改称するまでは、「御両社」が正式名称であった。前の道は旧奥州道中。ここに上の説明板が立っています。また、JR二本松駅は、この神社の下方あたりになります。(現地説明板に数字、赤丸を追記)


二本松城跡(霞ヶ城県立自然公園)
 二本松城跡は自然豊かな公園でもあり、春には城跡を覆うように桜が咲き誇り、秋には絢爛豪華な菊人形展が開催されるなど、年間を通して市民の憩いの場として親しまれています。

 また、遠く室町時代から江戸時代終焉まで600有余年の長きにわたり営まれた「二本松城跡」は三方が丘陵で囲まれた“馬蹄形城郭”で、自然地形を巧みに利活用した要塞堅固な名城です。

 1643(寛永20)年、丹羽光重が二本松藩10万700石の初代藩主として入城すると、幕末まで丹羽家の居城となり、戊辰戦争では旧幕府軍として徹底抗戦しますが、二本松少年隊の秘話を残して落城しました。
(文と城図は説明板より)




上写真2枚は、前回訪問時に撮ったものです。

【二本松城正面(箕輪門前の状況】

箕輪門前の二本松少年隊群像
 慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、13歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
 この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである(説明板より)。

千人溜(せんにんだめ)
 藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。写真左側に少年隊群像が立つ。

二合田用水(にごうだようすい)
 二本松藩主初代丹羽光重の命により城内および城下の防備のために敷設された用水堀。城の西方、安達太良山中腹を水源とし、約18qにわたり水を引いたもので、城下町へも分水した(説明板より)。


藩校「敬学館」跡
 藩校とは、各藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。二本松藩においても、9代藩主丹羽長富の代の文化14年(1817)、藩校「敬学館」が城の正面のこの地に整備された。戊辰戦争で焼失するまでは、二本松少年隊として出陣した少年たちもここで勉学に励んだと思われる(説明板より)。


史跡 旧二本松藩戒石銘碑(昭和10年12月24日・国指定)
 二本松藩5代藩主丹羽高寛(たかひろ)が藩士の戒めとするため、藩儒学者岩井田昨非(いわいださくひ)に命じて、寛延2年(1749)、城東の藩丁前にあった大石に刻ませたものです。

 「爾(なんじ)の俸(ほう) 爾の禄(ろく)は  民の膏(こう) 民の脂(し)なり
  下民(かみん)は虐(しいた)げ易きも 上天(じょうてん)は欺(あざむ)き難(かた)し」

 この意味は、「武士の給料は人々の汗と脂の結晶である。民は虐げ易いけれども、神を欺くことはできない。だから民を虐げると、きっと天罰があるぞ。」と解釈されています(説明板より)。



二本松市歴史観光施設「にほんまつ城報館」
 
二本松城を中心とする歴史と観光情報の発信拠点。



  次は箕輪門から本丸まで巡りますのでご覧下さい



  地域別訪問城に戻る