のしまじょうあと
能島城跡

能島村上氏の城  国指定史跡

能島城跡全景~左側、船着場がある島が能島。右側、祠の建つ小島が鯛崎島。後方は鵜島。
 宮窪港の沖合い約1㎞に浮かぶ能島と鯛崎島とからなる、島全体を城郭とした海城。能島(無人島)は島全体を大きく3段(本丸・二之丸・三之丸)に階段状に削平され、南と東の突端に出丸上の曲輪が展開する。能島村上氏の拠点的城郭として、中世後期を中心に利用された。
 本丸は、能島中央頂部の天守台状の部分。三之丸は左端に四阿の建つ場所。二之丸は、本丸と三之丸の間の小高い一帯。その右端は東南出丸。更に能島と相対する右端の小島が鯛崎出丸。

■訪問日/令和5年(2023年)4月2日
 訪問時、能島城跡は「史跡能島城跡保存整備事業」を進めていました。近年、集中豪雨や頻発する大型台風によって、表土や斜面の流出が発生したり、波浪等による島周囲の岩礁の浸食が見られ、さらに発掘調査により島に植樹されたソメイヨシノによる遺構等への影響も確認されたため、高木の伐採等を行い、史跡を保存継承していけるよう現在も保存整備、活用整備が行われています。再訪問が楽しみです。


(左)カレイ山展望公園から望む能島と鯛崎島(以前訪問時の樹木伐採前の様子)

■概略
 南北朝時代から戦国期にかけて、能島村上氏が居城した代表的な海城の跡。小島全体を城郭として利用した海城で、海の難所である宮ノ窪瀬戸を押さえる位置にある。周囲は潮流が渦巻く最大の難所となっており、能島は天然の要塞とも言える城だった。

 近年の調査により、岩礁には船をつなぐための無数の柱穴が残り、曲輪の発掘調査では、多くの建物跡や生活に使われた土器や陶磁器が多く発見された。戦時への備えはもちろんのこと、平時には、展開した多彩な海上活動の拠点であったと推測できる。

■国指定史跡
 一周が約846mの能島と、南隣りにある一周が約256mの鯛崎島の両島全体を城郭化するという、全国的にもとても珍しい形態。
 二島全体を城郭化した「海城」として、昭和28年(1953)3月31日に唯一国の史跡に指定。


■能島村上氏

 村上海賊は、14世紀中頃から瀬戸内海で活躍した一族である。後世には三島(さんとう)村上氏などと呼ばれ、能島・来島(くるしま)・因島(いんのしま)に本拠をおいた三家からなり、連携と離反を繰り返しつつも、互いに強い同族意識を持っていた。

 彼らは、海の難所である芸予諸島で育まれた海上機動力を背景に、戦国時代になると、瀬戸内海の広い海域を支配し、周辺の軍事・政治や経済の動向をも左右した。来島城を本拠とする来島村上氏は、伊予国守護の河野氏の重臣として活動した。因島村上氏は、周防国の大内氏に仕え、のちに中国地方の覇権を握った毛利氏の有力な海の勢力となった。そしてここ宮窪に本拠を構えた能島村上氏が三家のなかでもっとも独立性が強いとされ、特に村上武吉の時代には、毛利氏・大友氏・三好氏・河野氏といった周辺の戦国大名たちと、時に友好関係、時に敵対・緊張関係とりながらも、独自の姿勢を貫いた。日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、能島村上氏を“日本最大の海賊”と称した。

 武吉および息子の元吉・景親の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は北部九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握した。平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割を果たした。戦時には船舶を巧みに操り、「ほうろく火矢」など火薬を用いた戦闘を得意とした。また、茶や香を嗜み、連歌を詠む文化人でもあった。

 ところで昨今では、彼らを「村上水軍」ではなく、「村上海賊」と呼ぶことが多い。「水軍」は江戸時代以降に用いられた呼称であり、明治から昭和初期には、彼らを近代海軍の前身として評価する見方が強かったため、このように呼ばれていた。しかし、「水軍」では、彼らの多様な活動を表現できないため、最近では当時の古文書などに見える「海賊」という呼称を用いることが多くなってきている。


(右)カレイ山展望公園から望む能島(以前訪問時の樹木伐採前の様子)  
 周辺海域は、最大10ノット(時速約18.5㎞)にもなる激しい潮流が取り巻く時間帯もあることから、「天然の要塞」などと呼ばれ、海は天然の外堀としての役割を果たしていた。

 昭和初期には「軍事拠点」して、2000年代には、「出城的役割」「居住性はない」「見張り場や船溜り」と評価されてきましたが、近年の発掘調査により、これらとは違った能島城の姿が浮かびあがってきている。


■所在地
 愛媛県今治市宮窪町宮窪(下画像は村上海賊ミュージアムより引用)
             

■アクセス 
 能島上陸ツアーに予約が必要です。村上海賊ミュージアム前の「能島水軍」が乗船発着場所です。
 
    <乗船券です>
    


■縄張
 城内に設けられた平坦面を郭(曲輪)と言います。能島城の郭は階段状の大きく3段に削平され、東、南の鼻の頂部にも郭が形成されています。複雑な形状の「虎口(入口)」や、「土塁」、「堀切」、「竪堀」などの防御性の高い施設は見当たらず、島の周囲をめぐる急斜面が、「切岸」を想像させる程度の簡素な構造です。

 かつては、周囲を取り巻く最大10ノットの激しい潮流や潮汐に依拠した自然の防御性が強調されてきましたが、6時間おきに潮止まりは必ず訪れ、小潮時には最大でも1.4ノットにとどまる時もあり、常に激流が取り巻いている状態では決してありません。とりわけ大潮の満潮時には、船の接岸が容易な状態になります。つまり城自体の縄張(防御構造)や、周囲を取り巻く自然の防御性を見る限りにおいては、必ずしも強固な城とは言えない。

郭Ⅰ(本丸)、郭Ⅱ(二之丸)、郭Ⅲ(三之丸)、郭Ⅳ(東南出丸)、郭Ⅴ(矢櫃)、郭Ⅵ(鯛崎出丸)。
頂部から本丸(郭Ⅰ)、二之丸(郭Ⅱ)、三之丸(郭Ⅲ)と階段状に連なる。



三之丸(平面図の写真)から二之丸(中段部分)、本丸(上段部分)を望む
能島城は、山城と同様に、平坦地が数段にわたって連続し、島の周囲は急な崖面が多い城郭の構えとなる。



■城内の生活空間
 能島城のほとんどの郭で掘立柱建物跡が発見されました。とくに郭Ⅱ(二之丸)や郭Ⅲ(三之丸)では少なくとも1~3回、建て替えられた痕跡が見られました。建物の規模は梁間2間、桁行3~4間のものが多く、1間の柱間は約2m(6尺5寸)で規則性がありました。これらの建物跡は住居や倉庫と考えられますが、とくに広い平坦面には必ず建物跡があった郭Ⅱが主に居住空間として利用されていたことと推測されます。
 建物跡とともに、甕や壺などの貯蔵、すり鉢、鍋、釜などの調理や煮炊きの容器が多く出土しました。建物跡や生活容器の発見は、能島城内で人々が安定的に生活していたことを物語っています。 


上が能島、下が鯛崎島


能島(北面)
 砂浜部分が船だまり、その上が二之丸、本丸となり、右側、四阿の建つ岬状に伸びる部分が三之丸となります。

能島南部平坦地から見た鯛崎島
 鯛崎島は、頂上は削平されていて、出丸として使用された。

■能島城の玄関口
 船を繋ぐための柱や護岸用の杭を立てるために岩礁に穿(うが)れた穴を「岩礁ピット」と言います。能島城では約400基が確認されました。また大潮の満潮面のやや上部には、通路状のテラスがあります。島を一周していたと考えられますが、現在は浸食や崩壊によってその多くが失われています。
 岩礁ピットやテラスの保存状態がもっとも良く、潮の流れが常に穏やかな場所があります。城の北側の「船だまり」です。主要な航路であった船折瀬戸に面した小さな湾であり、広い砂浜があることから、船の発着や係留に便利な地形です。


潮の流れが常時穏やかな「船だまり」

岩礁ピット
 丸状の形をしている柱穴が岩礁ピット。柱穴には船をつなぐための柱をたてたと考えられます。左の白い石は、斜面保護や浸食部分への消波捨石で、能島城遺構とは関係ありません。


「船だまり」のテラス
 砂浜と崖の間の縦に細長い岩礁上部の狭い平らな犬走りのような通路状部分。上の白い石は消波捨石。


能島城にのこる謎の大穴(村上海賊ミュージアム展示のレプリカ)
 能島城の海岸には直径1mにもなる2基の大穴が発見されています。これは能島東部海岸の大穴で、現在の形状を後世に伝えるために制作した原寸大のレプリカです。穴の深さは2m以上になることが分かっている。
 通常の岩礁ピットは、20~30㎝程の大きさ。


 

今治市村上海賊ミュージアム



村上海賊ミュージアム3F展望室から能島城跡を望む。能島水軍(レストラン)の場所が能島城跡上陸&潮流クルーズ乗船場です。


村上海賊ミュージアム3Fから見た能島城跡
 左が鯛崎島、右が能島。


能島城跡地形模型(村上海賊ミュージアム展示)

小早船と繋船石(村上海賊ミュージアム屋外展示)
 村上海賊の機動力として活躍した小早船の復元船と繋船石。


繋船石(けいせんせき)
 村上海賊ミュージアム近くの戸代鼻沖の海底から引き揚げられた石。船を繋ぐ木柱を立てるためと推測される直径25~30㎝の円形孔が穿たれた花崗岩の台座です。

村上海賊ミュージアム説明板より掲載
(文章は一部修正)

次は、海上から眺める能島城跡周辺と能島城跡散策です


クルーズ船と能島城跡

海上から見た能島城周辺

鯛崎島(右手前)と左後方は能島
鯛崎島崖下の地蔵さんは後世のもので、鯛崎島頂上の祠は、能島城との関連性は低いと考えられる。


東部海岸と潮流
 この場所は、多くの岩礁ピットが列状に並んでいるため、船置場やメンテナンスの場所と考えられます。島を取り巻く海には、狭い海峡があり、潮流は激しく海の難所として知られています。

断崖上の郭は「矢びつ」
 海岸に面した切岸状の崖は、人工的か自然地形かの判断は難しいようです。


矢びつ、船だまり、三之丸一帯
 左樹木部分が矢びつ、砂浜の所が船だまり、四阿の建つ所から右側突端部までが三之丸となります。
 

船だまり
 ほぼ中央から右に三之丸、左に二之丸が展開し、二之丸の上方には本丸が位置します。船だまりは、能島城の主要な船着場、対外的な玄関口としての機能が想定されます。
 近年の自然災害によって法面や浸食が進み、斜面保護や消波捨石が施されています。


三之丸(西面)
 画像には写っていませんが、右奥が南部平坦地です。



南部平坦地
 現在の船着場であり、右側にクルーズ船の接岸施設が設置されています。ここから上陸となります。
 四阿の建つ三之丸から右方向に二之丸、本丸と築かれており、更にその右端の突端が東南出丸です。

東南出丸
 左側は南部平坦地です。


※ホームページの説明文、平面図等は現地説明板及び村上海賊ミュージアム展示解説板より引用し作成しました。次ページも同様です。


     次は能島城跡上陸です。

        


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