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国指定特別史跡 大野城 |
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![]() 大野城百間石垣 大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲まれているが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。この「百間石垣」の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名付けられたものである。 平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。この川の中から今までに3個の礎石などが発見されており、川に近い場所に城門があったと考えられる(現地説明板より)。 |
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大野城宇美口(北口)城門礎石(県民の森センター展示)この礎石は昭和48年に百間石垣の傍,、四王寺川の川底から発見された大野城の宇美口城門礎石である。現在確認されている大野城の城門は宇美口・太宰府口・」坂本口・水城口の四カ所であるが北向の城門は宇美口のみである。以前から重要地点と考えられていた所である。 文献には門礎一個の記載があり、また昭和34年頃附近で発見されたという門礎一個(現在宇美八幡宮蔵)があるが今回の礎石発見により宇美口の位置が明らかとなるであろう。 ただしこの礎石は宇美八幡宮のものと形状が異なること、他の礎石が円柱用であるのに対して角柱用礎石であることなど、尚、研究の余地を残している(現地説明板より)。 |
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特別史跡 大野城跡 [所在地]福岡県糟屋郡宇美町、太宰府市、大野城市 [史跡指定日]昭和28年3月31日 大野城は白村江(はくすきのえ)の戦(663)の後、唐・新羅からの侵攻に備えて西日本各地に築かれた山城の一つで、北西の水城、南方の基肄(きい)城とともに太宰府政庁を中心とした防衛ラインを形成していました。この山城は百済の亡命高官2名による戦略的・技術的指導のもと築城されたことが『日本書紀』に記されることから、一般に朝鮮式山城と呼ばれています。 大野城は政庁の北に聳える四王寺(しおうじ)山中(標高約409m)にあり、北は博多湾から南は築後方面を眼下に納める絶好の場所に立地し、山頂と山腹に土塁が、谷間には石垣が構築されています。現在、確認されている城内への入口は5ヵ所あり、食料の備蓄や居住に利用されたと考えられる70棟余りの建物が丘陵を造成した平坦面に残されています(文と下の「太宰府史跡と大野城跡」「大野城跡全体図」は説明板より)。 |
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太宰府政庁跡から大野城を望む |
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《百間石垣》![]() (説明板にA,Bを追記) |
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百間石垣は大野城の北の要(宇美口)に位置し、石垣の全長は150m以上あり城内最大の規模を誇ります。石垣の大半は強固な岩盤の上に構築され、裏込めに栗石を使用した透水性の高い断面構造をなし、石垣の南側には地下水を排出するための吐水口が設置されるなど、水に配慮した当時の技術の高さを窺い知ることができます。昭和48年の水害によって百間石垣の前を流れる川が氾濫、土砂崩れも重なり石垣は大きな被害を受けました。復旧工事に併せ発掘調査を行ったところ、石垣の基礎や川の中から城門の礎石と考えられる石材が発見されました。平成13年度からは石垣の保存のために修理が始められ、この時行われた工事で中央の石垣の裏から版築状の盛土が発見されるなど新たな知見を得ることができました。ところが平成15年7月の集中豪雨によって山林が崩壊、この土砂災害によって百間石垣は甚大な被害を受けます。工事は一時中断しましたが、復旧に取り組んだ結果、現在のような姿によみがえりました(文は説明板より)。 写真は「百間石垣案内図」Aあたりの様子です。今回訪問したのは、2019年3月ですが、以前訪問した際の写真です。 |
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![]() 「百間石垣案内図」A辺りの様子 林道沿いから見た百間石垣。 |
![]() 「百間石垣案内図」B周辺 登山道の下から見た石垣群。 |
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![]() 「百間石垣案内図」B周辺 石垣上にも登山道が敷かれている。 |
![]() 「百間石垣案内図」B周辺 石垣見学用散策路から見た石垣。 |
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| 《北石垣と北石垣城門》 北石垣は、百間石垣から東に連なる内周土塁上に位置する。 |
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![]() 北石垣への登り口 林道左側は百間石垣で、その向かいの林道右側に登り口があります。写真右側のガードレールと盛土の境にあります。 北石垣に辿り着くまでは、急勾配の登りが続き大変でした。 |
![]() 北石垣 文化3年(1806)年の「太宰府旧蹟全図」には「石カキ谷」の名が記されており、北石垣の存在は江戸時代から知られていたことが分かります。昭和47年の豪雨による土砂崩れをきっかけとして、昭和54年に九州歴史資料館による調査が行われました。その際、石垣の残存状況や構造などが確認されました。(文は左下に続く) |
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![]() 北石垣 その後、平成15年の豪雨でも前回以上の大きな被害を受けたため、平成18年には3ヵ所で調査が行われました。その結果、西側の2ヵ所で前回確認された石垣の下側に新たに版築盛土が見つかり、上段の盛土と石垣はこの下段盛土を基礎として階段状に築かれていることが判明しました。また、これまで2ヶ所に分かれると考えられていた北石垣が、全長約45メートルにわたる一連のものである可能性が高くなりました。 |
![]() 北石垣城門(現在は覆土保存) 最も東側の調査区では、土塁の途中に大きなくぼみがあることが分かりました。遺構がある可能性が高かったため詳しく調査を行ったところ、石垣とともに最下層から門の礎石が出土しました。これが北石垣城門です(文は説明板より)。 |
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《小石垣(こいしがき)》小石垣は城の東北部にあり、二重土塁の内側の石塁である。石塁はほとんど崩れてしまったが、上端幅5m・高さ10m・両岸間30mほどで、水門もあったのだろう。見えている石垣のほかに地下に残っている部分がある。 ![]() (復元図と城地図は説明板より) |
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![]() 小石垣 |
![]() 上から見た小石垣 |
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| 《主城原(しゅじょうばる)礎石群》 大野城の建物は現在70棟余りが確認されている。これらが数棟から十数棟のグループを構成しています。建物跡が残るそれぞれの地名をとり、主城原地区建物群、八ツ波地区建物群、尾花地区建物群などと呼ばれている。 |
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![]() 主城原礎石群 主城原地区に残る建物跡の礎石。 |
![]() 主城原建物跡の礎石 |
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| 《八ツ波礎石群》 ここは城内のうち中央部からやや西側の場所にある。当地区には14棟の高床の建物跡があり、倉庫として作られたものであろう。このうち10棟は西方の傾斜面に大規模な土地造成をして配置計画したもので、城内建物群中もっとも整然としている。 |
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![]() 建物跡の礎石 |
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| 《尾花礎石群(焼米ヶ原)》 ここには10棟の建物の跡が残っている。これらは礎石が各建物の範囲内に碁盤目状に配置されており、床を人の背丈ほどに高くし、それを多数の柱で支える建物であった。このようなもので有名なのは奈良・東大寺の正倉院がある。大野城でも倉庫として武器や食糧などの備蓄のために建築されたものであろう。 ![]() 10棟の建物は、ほぼ南北方向に5棟が一列に並び他の5棟もそれぞれ計画的に配置されている。建物の大きさは梁行6.3m桁行10.5mで統一されている。 |
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![]() 土塁上から焼米ヶ原(やきごめがはら)を望む |
![]() 土塁 大野城の土塁は、質の違う土を数センチごとに積んで叩きしめるという工法(「版築(はんちく)」)で造られている。 |
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| 《太宰府口城門》 大野城には4ヵ所の城門が知られています。南側(太宰府側)には3ヵ所設けられており、そのうちの一つが太宰府口城門です。発掘調査前には唐居敷(門扉の敷居)の一部が確認されていただけです。この城門に接して、左手には谷筋から進入してくる敵を拒むように築かれた石塁(水の手口石塁)が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれています。この城門は太宰府政庁側に位置し、規模が最も大きいことから大野城の正門ではないかと考えられています(下「太宰府口城門の全体図」の現在地に設置された説明板の位置からの説明文)。 |
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![]() 「太宰府口城門の全体図」(説明板にA・B・C・Dを追記) 「太宰府口城門の全体図」は以後「全体図」と記載 |
![]() 「全体図」Aから見た太宰府口城門 城門の変遷〜発掘調査の結果、城門建築や両袖石積みの変遷が明らかになりました。城門は、最初に掘立柱形式の建物が建てられ、次に礎石形式へと大きく建て替えられています。また、礎石形式の時には、規模はそのままに門柱の両袖を石積みで塞ぐ改修が行われたことも判明しました。掘立式形式の建物規模は3×4間(9m四方)でしたが、礎石形式の建物では1×1間(5.2m四方)とやや小さくなります。礎石形式の間は二階建ての楼門形式が想定され、大野城の堅固な守りと威厳が示されていたのでしょう(説明板より)。 |
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![]() 「全体図」Bの様子 門跡左側の石積から、焼米ヶ原(左斜め上方)に延びる土塁。 |
![]() 「全体図」現在地(太宰府側)から見た城門 |
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![]() 門跡横の石積 |
![]() 城門礎石 |
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![]() 「全体図」Cの水の手石塁 この石塁の反対側が右写真の石塁です。 |
![]() 「全体図」Dの水の手口石塁 写真には写っていませんが、左側に太宰府口城門が位置する。中央の石垣右手には土塁が続く。 |
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| 《増長天(ぞうちょうてん)礎石群》 当地は城の南東部で、太宰府口城門に近い内部土塁のすぐ内側である。4棟の高床建物(倉庫)跡が一列に並んで残っている。傾斜地を利用しているため石垣を作り、上段と下段に区切り各段に2棟ずつ配置している。下段建物の西側に鏡ヶ池と呼ばれる小窪地がありどんな渇水期でも水が絶えないという、大野城の井戸跡ではないかとも考えられる。 |
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![]() 尾花駐車場から右斜め上方向に約5分ほど歩くと尾花礎石群(焼米ヶ原)につく。太宰府口城門も尾花駐車場から外周土塁を下って行けば徒歩約5分ほどでたどりつける。 増長天地区へは、林道を挟んで尾花駐車場の真向かいに案内標識が立っています(図は現地案内板に追記し掲載)。 |
![]() 建物を支えた礎石が残る増長天地区 左上は内周土塁、右奥に鏡ヶ池が位置する。 |
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![]() 建物配置は上・下段に分かれる |
《鏡ヶ池》![]() 増長天礎石群のすぐそばに位置する鏡ヶ池 |
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| 《大石垣》 この場所は大石垣と呼ばれるように石のみで築かれた長さ100mほど城壁で、尾根の間にある二筋の谷を跨ぎ構築されています。現状で谷部分の石垣の高さは7mほどあります。 <豪雨災害> 平成15年7月19日未明、大野城跡は記録的な集中豪雨に見まわれました。大野城跡全体にわたり土砂災害が確認されるなか、大石垣でも壊滅的な被害が認められました。大石垣上流にある崖の数ヶ所が表層崩壊を起こし、土石流となって樹木をなぎ倒し、石垣へと流れ込んで西側の大半を押し流していました。石垣の裏込が露出し、石材が散乱する無残な姿が土砂災害の凄さを物語っています。 |
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![]() 2019年3月現在の大石垣 新しく積み直された大石垣。石垣左側へは立入禁止となっており、横からしか写真は撮れませんでしたので、現地説明板に掲載の写真を(右)(下)に載せました。 |
![]() (現地説明板より) |
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![]() (現地説明板より) |
<大石垣の発掘調査> 発掘調査は被害状況を確認するために、土砂と倒木、散乱した石材を片づけ清掃することから始めました。その結果、石垣は山側(北)と谷側(南)の両面に仕上げがなされる独立した構造物であることや、石垣の谷側(南)のほとんどと西半分の山側(北)の石垣が失われていることがわかりました。 石垣のもともとの平面はへの字形をなし、東側尾根から谷に下りたところで屈折し、西側は直線的に駆け上がってできています。 石垣の山側は上流から流れてきた土砂が石垣で堰き止められて堆積したように見えますが、その中には板材や丸太を敷いた部分があり、場所によっては人為的な造成の可能性も考えられます。 また、石垣の表情は一様でなく変化があり、残されるすべての石材が築城当時のものではなく、長い年月の間に多くの人が関わり、修理をはじめとするさまざまな理由でこの石垣に手を加えていたことがわかりました(文は現地説明板より)。 |
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