鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)

鶴ヶ岡城(東面)をのぞむ〜大寶館(たいほうかん)の建つ所は本丸中門跡、大鳥居の所は二の丸大手門跡。
庄内藩酒井家が約250年来居城とした鶴ヶ岡城趾。城は取り壊され公園として整備された。


■所在地
 山形県鶴岡市馬場町

■立地

 平城

■曲輪配置による城の分類

 本丸を二の丸で取り巻く輪郭式縄張

■アクセス

 ▽バス 
 JR羽越本線「鶴岡」駅より約10分、市役所前下車、徒歩3分
 ▽レンタサイクル
 鶴岡市観光案内所(マリカ東館1F)にて貸出
 利用者:鶴岡市民以外の観光客のみ
 貸出時間:午前9時00分〜午後5時00分(4月〜11月。冬季は貸出なし)
 利用料金:無料(協力金をお願いしています)

■訪問日 2021年4月

 訪城は、レンタサイクルを利用。距離は2q、目安時間は15分前後でした。

(市街図は現地案内板より)


■鶴ヶ岡城のうつりかわり
(文と復元図は城内説明板より)
 ●鶴岡城は古くは大宝寺城とよばれ鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。
 
 ●天文年間(1533年頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその枝城となった。
 
 ●天正15年(1587年)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏次いで慶長6年山形の最上義光の支配するところとなった。
 
 ●慶長8年(1603年)大宝寺城は義光の隠居城として修覆され鶴ヶ岡城と改称する。
 
 ●元和8年(1622年)最上氏が領地没収となり、その後信州松代より酒井忠勝が入国、庄内14万石(幕末17万石)の居城として整備拡充された。
 
 ●酒井氏は徳川幕府の譜代大名として明治4年まで約250年間庄内を治める。戊辰戦争において新政府軍と戦い降伏。
 
 ●明治8年(1875年)鶴ヶ岡城解体。本丸、二の丸が公園となり本丸跡に荘内神社が建てられた。
 
 ●今では公園のお堀と土塁、お城稲荷の森に、僅かに当時の面影が偲ばれるにすぎない。

※赤く印された名称は、現在の地名及び施設です。


 酒井氏入国以前の鶴ヶ岡城二の丸
        大泉叢誌絵図二
      最上時代鶴ヶ岡之城古図(複写)
  寛文四年(一六六四)に口伝をもとに作成された絵図の写。
  最上氏が庄内を治めていた時代、鶴ヶ岡城は、本丸に粗末な茅葺きの御殿があるだけで、塀も所々が芝垣で、二の丸には七軒の侍屋敷が建っているのみだったといいます。
  なお、本図は酒井氏時代の絵図に書き入れたものです。例えば、最上氏時代は「天池(あまいけ)」という小さな池だったはずの「百間堀」も南側に描かれています。
  (古図と文は、致道博物館内の「旧庄内藩主御隠殿」展示物より)


■鶴ヶ岡城復元模型(「旧庄内藩主御隠殿」内展示物に文字を追記)

模型写真右下の「角馬出」下あたりに、現在では鶴岡市役所が建っていると推定できます。


〜鶴ヶ岡城趾散策〜


  
(左)内川に架かる朱塗りの三雪橋から見た突き当たりに建つ大鳥居(二の丸大手門跡)。 (中)鶴ヶ岡城の外堀にあたる内川。 (右)三雪橋からまっすぐ行った所から見た大鳥居。左側は鶴岡市役所、右側は簡易裁判所。

 ◆本丸跡◆

大鳥居のところが、二の丸大手門跡
 大鳥居をくぐった先が本丸跡。


本丸跡には、庄内神社が建つ
 本丸に置かれた御殿は藩主の居間や長局、黒書院、白書院などからなり、923坪もあった。

本丸東側の水堀
 右の建物は大寶館。現在では本丸周囲の水堀と、二の丸西・北辺の水堀がわずかに残る。


本丸南東隅の本丸水堀と大寶館
 大寶館の建つ場所は、本丸虎口の一つで、枡形となっていた本丸中門跡。


本丸中橋跡と大寶館
 中橋を渡った大寶館の所が本丸中門跡。シンプルな左右対称の姿が美しく、白壁に赤いドーム風の屋根が映える大寶館は、大正初期の当地の洋風建築の意匠を今に伝える貴重な建物として、昭和56年(1981)に鶴岡市の有形文化財に指定された郷土ゆかりの人物資料館。


本丸南側の水堀
 水堀の左手は二の丸跡、右手の堀沿いは本丸渡櫓跡となり、写真には写っていませんが右側に大寶館が位置する。


本丸渡櫓跡


本丸西側に残る土塁
 本丸周囲には、高さ二間の土塁が巡っていた。

本丸北側に残る土塁と水堀

本丸西側の水堀
 水堀後方は二の丸跡。


本丸御角櫓跡
 万治2年(1659)に築造された2階建ての櫓。櫓台の石垣が少し残る。


本丸水堀と本丸御角櫓跡


本丸内北門跡



現在、菖蒲園となっている本丸北東の水堀

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