昔の天守が現存する全国12城の一つ
宇和島城

《二の丸より三重三階の天守を望む》

かっては城の二辺(西と北)が海に面する不等辺五角形の縄張の海城であった


[別名] 鶴島城
[所在地] 愛媛県宇和島市丸の内
  
  宇和島駅より南へ1.5q。徒歩約15分

 
 JR宇和島駅前の闘牛像
[地形種類] 宇和島市街の中央に位置する海抜80mの城山に建つ平山城
[築城年代] 慶長元年(1596)
[築城者] 藤堂高虎
[文化財指定区分] 国指定史跡(城跡)、重要文化財(天守)
[宇和島城沿革]
 ここに初めて築城された年代は明らかではないが、天慶4年(941)橘遠保が宇和地方の豪族となり、嘉禎2年(1236)には、西園寺公経の所領となり、戦国時代天文15年(1546)家藤監物の居城となって、板島丸串城(いたじままるぐしじょう。板島は宇和島の旧名)といわれていた。天正3年(1575)には、西園寺宣久が居城とし、天正13年(1585)小早川隆景の所領となり、天正15年(1587)には戸田勝隆の領するところとなった。

 現在の地に初めて天守が建造されたのは慶長6年(1601)ごろ藤堂高虎によってであるといわれている。文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられるに及んで初めて本城となり、慶長元年(1596)築城工事を起こし慶長6年(1608)ごろまでかかって、城堀をほり石垣を築き、天守以下大小の矢倉を建て、厳然たる城郭を造った。慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり同年富田信濃守信高が入城したが、まもなく改易となり、約1年間幕府の直轄地となった。

 慶長19年(1614)には奥州仙台の藩主、伊達政宗の長子秀宗が、宇和郡10万石を賜り元和元年(1615)に入城し、それ以後伊達氏歴代の居城となった。二代宗利の時、寛文4年(1664)から天守以下城郭の大修理を行い、同11年(1671)に至って完成した。その後たびたび小修理が行われているが、現在の天守は寛文の時代に完成した姿をそのままに残しているものである。廃藩後、周囲の矢倉は大部分取りのけられ、昭和20年の戦災で追手門(国宝)を焼失したので今はわずかに天守と上(のぼ)り立ち門を残すのみである。


【宇和島城天守】
江戸時代天守の典型



【宇和島城天守の意匠】 
 寛文6年(1666)に再建された二代目天守。三重三階本瓦葺、白壁総塗籠の層塔型天守。唐破風造の玄関は、天守に威厳を添える。一重目に比翼千鳥破風、二重目に千鳥破風、三重目に軒唐破風と装飾性に富んだ天守となっている。
 宇和島城天守の構成形式は、天守だけが単独に建つ独立式天守。
   
   天守雛形


土戸

板戸の表面に壁土を塗ったもので、防火性は高いが、敷居に雨水が溜まりやすい。




敷居の排水管

窓の下についている突起物が排水管。敷居に溜まった雨水を外へ流す管。

排水口(室内)

画像中央下、敷居の丸い穴が排水口。敷居に溜まった雨水を外に流す役割をする。


三重目にある軒唐破風
蕪懸魚(かぶらげぎょ)

懸魚は社寺建築に用いられてきた装飾部材。


唐破風

天守1階玄関の唐破風造

(しゃち)
    
 宇和島城の鯱は瓦製。中は空洞になっている。頭が虎で、胴体が魚、この想像上の霊魚を鯱という。天守の屋根の頂に上げて飾る。天守以外でも、重要な隅櫓、櫓門などにも使う。


【天守内部】

1階内部



急な階段
玄関にある唐破風造の内部(左・右)
       


櫛形門(一の門)跡の石垣

石垣はほぼ完全に残る

 
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