大阪城の歴史的建造物(重要文化財) 

 徳川期の大坂城は、多聞櫓で連結された3層櫓が本丸にいくつもそびえ、二の丸にも2層櫓とそれを繋ぐ白壁が累々と連続する威容を誇っていました。それらのほとんどは戊辰戦争時の大火災と昭和20年の空襲で失われてしまいましたが、災害をくぐり抜けた13棟の建物が昭和28年6月13日に国の重要文化財に指定されました。 

(現地説明板より)



外堀越しに望む千貫櫓・多聞櫓・大手門


 【大手門・大手門北方塀・大手門南方塀】
城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。
現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。

大手門
 正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱との間にも屋根を乗せた高麗門形式である。屋根は本瓦葺で、扉や親柱を黒塗総鉄板張とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。


大手門(内側)
 親柱・控え柱の下部はその後の腐食により根継がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。

 

大手門北方塀
 大手門の左側に接続する北方塀。


大手門北方塀(内側)


大手門南方塀
 大手門の右側に接続する南方塀。


大手門南方塀(内側)


【多聞櫓・多聞櫓北方塀】
 大手口枡形の石垣の上に建つ櫓で、大門(おおもん)の上をまたぐ渡櫓と、その右側に直角に折れて接続する続櫓によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に再建された。
 土塁や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが、その名称は戦国時代の武将松永久秀が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。 

多聞櫓(左)と大手門


多聞櫓
 大門の上をまたぐ渡櫓(左側)と、その右側に直角に折れて接続する続櫓で構成される。


渡櫓
 現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。

 大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。


渡櫓
 渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落し」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。


多聞櫓北方塀
 千貫櫓(左)と右の多聞櫓(渡櫓)の間に築かれているのが多聞櫓北方塀。


多聞櫓北方塀(内側)
 右側の建物は千貫櫓。


  【千貫櫓】
 大阪城の大手口を守る重要な隅櫓である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州である。 

千貫櫓
 二の丸石垣上に建つ千貫櫓。水堀は西外堀。千貫櫓の右の塀は、重要文化財の多聞櫓北方塀、さらにその右は同じく重要文化財の多聞櫓(渡櫓)。


千貫櫓(西の丸庭園側)
 面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。


左より、千貫櫓、中央奥は天守、右は多聞櫓(渡櫓)


【桜門】
 
 本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。
 桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。



桜門(二の丸側)



桜門(本丸側)

 【金蔵(きんぞう)
      江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫としての役割を果たした。「かねぐら」「かなぐら」とも読む。高さは約5.8メートル、
     面積は93.11平方メートルで内部は大小2室からなる。構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の
     三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。


金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)】 

大坂城の小天守台にある井戸を金明水といい、それを覆う面積11.55平方メートル、高さ5.2メートルの建物を金明水井戸屋形という。井戸は水面まで
 約33メートル、井筒は一個の石をくり抜いたもので、外部の水流しは4枚の大石を組合わせて敷き詰めている。伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くため
に黄金を沈めたと言われているが、戦後の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大坂城再築工事にともない寛永元年
 (1624)に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は同3年(1626)に創建された当時のもので、同じ年に築かれた天守が寛文5年(1665)に焼失した
  際にも類焼をまぬがれたことが判明。なお江戸時代までこの井戸は黄金水と呼ばれ、本来の金明水(金水)は天守の東側、現在の配水池のあたりにあった。
※天守閣入場(有料)しないと見学はできません。
  

焔硝蔵(えんしょうぐら)】 
 
徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。
この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁を全て花崗岩とし、石壁の厚さは約2.4メートル、
屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国
では他に例がない。大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほか大量の武器武具が備蓄されていた。
※焔硝蔵は西の丸庭園(有料)に入場しないと見学できません。


  【一番櫓】
二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は最も東に位置することから「一番櫓」という。

 外側にあたる東面と南面を中心に窓が16あるほか、鉄砲や矢を放つための狭間も多数あけられ、玉造口に攻め入る敵を側面から一斉に迎撃することができた。東面には石垣を登ろうとする敵を撃退する石落としも設けられている。


 創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)と考えられている。
 面積は1階が約167.98平方メートル、2階が約96.31平方メートル、高さは約14.3メートルである。なお、一番から七番までの櫓のうち、現存するのはこの一番櫓と六番櫓のみである。


 【六番櫓】
この櫓は東から六番目であることから「六番櫓」という。

 外側にあたる南面と西面に石落としを1か所ずつ設け、窓は外側を中心に26,鉄砲や矢を放つための狭間も多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをなしている。



 創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)で、上層の破風を飾る東西の懸魚(げぎょ)のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれている。面積は1階が約224.16平方メートル、2階が約133.43平方メートル、高さは約15.4メートルある。


 【乾櫓】
乾(戌亥)は西北をあらわす言葉で、西の丸の西北に位置することからこの名がついている。

 大手口(右奥方向)から京橋口(左側方向)までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、堀をへだてた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから「三方正面の櫓」とも呼ばれた。



西の丸庭園から見た乾櫓
 創建は元和6年(1620)。千貫櫓と同じく、徳川幕府による大坂城再築工事が開始された年に築かれた、大阪城に残る最も古い建造物である。
 高さは約10.3メートルで2層2階建て、面積は1階の石落とし部分をのぞくと各階とも約186.23平方メートルで、L字形の総2階造りという非常に珍しい構造をもつ。この時期築かれた櫓の工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州である。


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