国指定特別史跡・重要文化財13件  大阪城

大阪城(明治以前は大坂城)の位置する上町台地は古代から水運の便に恵まれた自然の要害であった。この地に最初に城を築こうとしたのは織田信長であったといわれている。
◆大々的に大阪城築城を行ったのが、信長の後継者として天下人となった豊臣秀吉である。1583年(天正11)、石山本願寺跡に15年余の歳月をかけて完成(豊臣大坂城)。しかし、わずか30年で、大坂夏の陣によって灰燼に帰した。
◆1615年(慶長20)、大坂夏の陣によって大阪城は落城し、豊臣家滅亡。5年後、代わって建てられたのが徳川大坂城である。元和5年(1619)から、二代将軍・徳川秀忠によって再建が進められ、3期にわたる修築工事で寛永6年(1629)に完成した(徳川大坂城)。
 それは再建というよりも、完全な新築であり、秀吉時代の遺物は痕跡すら残さず、石垣も堀も全て7〜8メートルの地下に埋め、「徳川」の城として築造した。
◆1629年(寛永6)に完成したが、寛文5年(1665)に落雷のため天守が焼失し、以後江戸時代を通じて天守台はそのままで、天守は再建されずに幕末を迎えた。
◆現在の再建天守閣はいわば三代目。大阪市民の寄付で、昭和6年に建てられた。現在、大阪城として見ている石垣や堀、天守台は、全て徳川時代のものである。しかし天守閣だけは、豊臣時代の天守をモデルにして復元。

【大阪城地図】
<大阪市中央区大阪城1-1>

 
※地図の左が北側、上が東側(現地説明板より)

【別名】錦城 金城   【城地種類】平山城  ■訪問日〜2021年12月再訪問

【特別史跡 大坂城跡】 大坂城跡は昭和28年(1953)3月31日に国の史跡に指定されました。
 指定理由として、この地を本拠に織田信長と争った本願寺の繁栄、豊臣秀吉の築城、大坂夏の陣
における落城とその後の徳川幕府による再築という大坂城の変遷が、国の歴史上きわめて特色ある
重要な局面を示している点があげられています。
 加えて、著名な巨石や、高い技術で積まれた美しい石垣、広くて深い水堀等からなる現存遺構が、わが
国を代表する近世城郭である点も評価されているのです。続いて昭和30年には、史跡のなかでも学術上
の価値が特に高く、わが国文化の象徴と評価されるとして、特別史跡に格上げされました。

広くて深い内堀の美しい石垣と天守 


【登録有形文化財 大阪城天守閣】
 現在の天守閣は昭和6年(1931)、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された。鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上層の鯱までの高さは約54.8メートル。古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。

 初代の天守は、豊臣秀吉が大坂築城を開始して3年目となる天正13年(1585)に完成したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で城もろとも焼失。

 二代目の天守は徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665)に落雷で焼失した。以来大坂城は天守のない城郭として幕末に至る。

 三代目となる現在の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次大戦の空襲でも焼失をまぬがれた。平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。

 なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。
 

天守台石垣の爆撃被害跡
 昭和20年(1945)、陸軍の関連施設が集中していた大阪城は、終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。

 昭和6年復興の天守閣は天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。


山里口出枡形
 本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形(でますがた)という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口(やまざとぐち)門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。


山里門跡
 下って右折れすると極楽橋に至る。

極楽橋と天守
 極楽橋を渡った所が山里門跡。


天守閣から望む西の丸庭園(一部分)
 大阪城二の丸のうち、本丸の西部にあたる部分を“西の丸”とよんでいます。秀吉の正室「北の政所」が慶長4年(1600)徳川家康がこの地に移り住むまでここに住んでいたといわれ、その後、元和5年(1619)内藤紀伊守が「大阪城代」になって以来明治政府になるまで「大阪城代屋敷」として使用されてきたところです。


西の丸庭園
 中央奥は大阪迎賓館。西北部には乾櫓、西南部には千貫櫓、迎賓館東側には焔硝蔵があり、いずれも重要文化財に指定されています。
 なお、西の丸庭園入場は有料です。


【城内一の高さを誇る約32メートルの本丸東面高石垣。後方は天守】 



 【南外堀と二の丸石垣。櫓は六番櫓(重要文化財)】

この石垣上には、手前から七番櫓・六番櫓(現存)・五番櫓・四番櫓・三番櫓・二番櫓・一番櫓の7つの櫓が建っていた


【城内へ至る4ヶ所の進入口】 

大手口(おおてぐち)
 大坂城の表正門。西に向いて建てられた高麗門形式の城門が大手門。左は多聞櫓で、共に重要文化財に指定されている。


京橋口(きょうばしぐち)
 大阪城の西北の出入口。後方の石組部分が京橋門跡。さらにその後ろには天守閣が建つ。この場所には、城内第2位の巨石「肥後石」がある。

 
肥後石


青屋口(あおやぐち)
 青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門(写真)はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火、昭和20年(1945)の空襲で大破した。昭和44年(1969)に再建された。


玉造口(たまつくりぐち)
 大坂城の東南の出入口にあたる。ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代には大手口や京橋口と同様、石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓が建っていた。現在では門の両脇の石組み以外は旧観をとどめていない。ブルーシートが架けられている所が玉造門跡。


【本丸の正門「桜門」】
 
門奥の巨石は蛸石



南仕切門跡
 大手門から本丸に向かうと、左手に位置する西の丸公園前を通り過ぎると、南仕切門となり、さらに進むと桜門に行くことができる。
 南仕切門は、二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの箇所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣(写真右側の石垣)の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられる。いずれの建物も慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火によって焼失した。



本丸の正門「桜門(重要文化財)」
 桜門の両脇、枡形内には巨石が多数あり、桜門をくぐった正面には大阪城最大の巨石である蛸石が見られる。




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